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 電子私書箱の民間運営や官民の共同利用がちょっと棚上げの雰囲気になってきた。電子私書箱は、公的なサービスはもちろん、銀行やクレジットカード会社、病院や保険会社などから届く大切な情報をしっかりとしたセキュリティの下で扱うことのできるネット郵便受けだ。

 ほとんどの人は、電子メールを暗号化もせずに平気でそのまま送っている。だから普通のメールアドレスに、年金、医療、介護なんていうプライバシーに深く関わる個人情報を送るなんてことはできない。送った人も、受け取る人も、きちんと認証して、高度なセキュリティ対策を施した電子私書箱を利用する。電子メールが普通郵便なら、電子私書箱に届く情報は書留郵便みたいなものだ。

 電子私書箱という言葉が登場したのは、IT戦略本部の「重点計画-2007」で、そこに「国民視点の社会保障サービスの実現に向けての電子私書箱(仮称)の創設」という1節が設けられた。政府が考える国民視点とは何かは分からないけれど「医療機関や保険者等に個別管理されている情報を、希望する国民が自ら入手・管理できる「電子私書箱(仮称)」を検討し、2010年頃のサービス開始を目指す。」との目標が掲げられた。

 これを受けて2007年10月には「電子私書箱(仮称)による社会保障サービス等のIT化に関する検討会」が発足し、2008年3月には報告書がまとめられた。そこには電子私書箱の運営を民間企業が担うことや、例えば、銀行、保険会社、健康関連企業などの多様なサービスが電子私書箱を利用する内容となっていた。これはなかなか良い報告書ができあがったぞ!これならパソコンだけではなくて、ケータイからでも、デジタル化したテレビからでも、多様なインターフェイスで安全に個人情報が利用できるようになる!いよいよ「○○ポータル」みたいなものとオサラバだ!と喜んでいた。

 ところが最近、この電子私書箱の風向きが怪しくなってきた。

 電子私書箱には、いつも「社会保障サービス」という冠が付いている。政府から見ると当面大切なのは、年金、医療、介護に関わる情報サービスを安全に提供することだ。2011年頃までには、基礎年金番号を管理する社会保険庁のシステム整備が完了する。医療機関が健康保険組合などに診療報酬を請求する際に利用する明細書(レセプト)も電子化される。住基カードに続く第二の公的ICカードとなる社会保障カード(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/01/s0125-5.html)が、年金手帳、健康保険証、介護保険証に代わるものとして発行される。

 個人情報を電子化するという話になると、個人情報が漏洩するとか、悪用されるとかいうことばかりに関心が注がれる。けれども、多くの人がわかったと思うけれど、社会保険庁の一連の事務処理のように手作業は実に危ない。例えば、レセプトの処理は、それぞれの病院で診療報酬が計算され明細書が手書きされる。保険者となって病院から請求を受けた機関は、山積みにされた様々な書式の紙のレセプトを担当者がその目で一枚ずつチェックする。それらを運んで、また別の担当者がパソコンに入力する。それをまた運搬して、今度は支払いを担当する人が山積みのレセプトをチェックして、またパソコンに入力して…、なんてことを繰り返している。これではレセプトがどこかでなくなっても不思議じゃないし、不正や打ち間違いが起こらないほうがおかしい。そんな状態の社会保障関係の事務処理だから、不正請求などの事件は後を絶たないし、年金記録は長年の間にむちゃくちゃなことになってしまった。

 そんな現場を知る者としては、一連の社会保障関連の手続きを丁寧に見直して情報化することで、今よりは百倍マシになると考えている。情報化に着手するのが遅すぎたくらいで、年金、医療、介護のサービスを電子化することには大賛成なのだ。それらのサービスの内容は電子私書箱を利用して自分自身でチェックできたり、第三者機関が運営状況をチェックしてくれたりすればなおさら安心だ。

 でも、厚生労働省がそれら一連の事務手続きを丁寧に見直せるかどうかは疑問だ。例えば、年金だって、厚生年金や共済組合など多数の組織が関係している。医療保険となれば、保険者は健康保険組合だけでも1,500くらいはある。共済組合や高齢者医療の関係機関との調整も必要だ。病院や診療所の事務手続きも見直さなければならない。介護保険の保険者は市町村だから、その数は約1,800もあるし、既に利用されている介護保険システムはバラバラだ。そんなことを考えると、年金、医療、介護を一気に連携させてシステム化するのは気の遠くなる作業なのだ。住基ネットではICカードを発行するだけだって大騒ぎだった。厚生労働省は社会保障カードを発行するだけでも大変なのに、それに加えて、これらの調整作業を同時に平行してやろうとしている。実態は上へ下への大騒ぎだろう。その渦中にいる人々は、上からのプレッシャーと作業の困難さに直面して、その辛さは痛いほどわかる。本当はあわてずに、この見直し作業を丁寧に進めた方が良い。

 ところが2008年8月22日に決定された「重点計画-2008」では、その見直し作業のスピードを弱めるのではなくて、個人にとって大切な電子私書箱のトーンをグッと弱めてしまった。重点計画-2007を受けた検討会は、「電子私書箱(仮称)による社会保障サービス等」と主客が逆転して、電子私書箱が前面に出て、個人に多目的に利用され、民間企業を含む多くの主体による共同運営、共同利用のイメージが示されていた。それなのに重点計画-2008では、ほんのちょっぴり「(6)社会保障情報以外の分野への利用(p.10)」の1項が書き込まれただけで、あとは社会保障サービスのための電子私書箱の記述ばかりになってしまった※1

 社会保障カードも、それに関連する年金も、医療も、介護も、国民にとって本当に大切なサービスだ。けれども電子私書箱は安全に個人情報をやりとりすることを実現する。その応用範囲は、社会保障に留まらず社会の多様な場面で活用可能である。電子政府にも、民間企業の取引にも、もちろん個人間でも有用だろう。電子私書箱がインターネットに欠けた安全と信頼を取り戻す可能性だってある。

 本末転倒の「本」と「末」は、その視点の違いによって入れ替わる。自宅にある郵便受けを見てみるとよい。入ってくる郵便物は、年金、医療、介護が「本」ではない。個人の視点が政府の視点と異なることは明らかだ。

【注】

※1 きっと、国のご担当は「社会保障以外の分野への利用方針は変わっていません」って言うと思うのですが、電子私書箱による社会保障サービス等のIT化に関する検討会の報告書の出来がとてもよかったので、重点計画-2008でこの内容をしっかりと受け止めずに、社会保障が「本」で電子私書箱がそのために必要なものとした扱い方が、本当に残念でならないのです。重点計画-2009に向けて、もう一度、電子私書箱の重要性について議論をしていただきたいと願うばかりです。電子私書箱があれば、セキュリティ確保のためのコストの負担に耐えられない自治体や中小企業でも電子的な多様なサービスの提供に乗り出すことだってできます。そうなれば国民も、社会保障カードだって、住基カードだって、喜んで受け取ると思うのだけれど…。【本文に戻る】