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 一般的に、百科事典というと各分野の専門家が執筆する。教科書や雑誌もおよそ同じだと思うが、とりまとめを行う編集者や誰かが執筆者を選定する。執筆者に任命されるには過去の実績などが判断材料となるだろう。そして原稿が出来上がると、関係者で査読や校正を行った上で、記事は完成品として世に出る。多少の訂正はあれど、事後に加筆修正が行われることはあまりない。つまり「事前に」あれこれとチェックがあるということだ。

 対照的にWikipediaは事後にチェックがかかる。誰でも加筆修正できるので、事前のチェックなどない。執筆や編集にふさわしい人物かどうかの審査もない。その道の素人だろうが関係ない。ただし記事は公開されている限り、審査の目にさらされ続ける。

 Web2.0を象徴する言葉に「永遠のベータ版」というのがある。今となっては久しい言い回しだが、Wikipediaがまさにそう。いつになっても完成品にはならないが、いつまでも進化や改良が止まることはないという意味だ。最初は数行しかなかった記事でも、話題性が高まれば一気に記述が増えるなんてこともある。同じ記事でも読んだ時期により内容が異なるということも起きうる。

 2009年5月の現時点で、Wikipedia日本版には58万本もの記事がある。今後も増え続けるだろう。Wikipediaは立派にそびえ立つ大樹のようでもある。だが近くに寄ってよく見てみると、病んでやせた葉もあれば、逆に異様に育ってしまった葉もある。無理もない。もとから1本の木として育っていないのだ。いろんな人が葉や枝を持ち寄って木の形にしたようなものである。だがそれでも、皆が頼りにする百科事典として立派に成長を遂げている。これは驚異的なことだと思う。

 場さえ用意すれば黙っていても正しい記述が体系的に伸びていく……、なんてことはない。知識の編さんがそんなに都合良くいくわけがない。悪意の有無にかかわらず、誤解や不手際により正しくない記述が書かれてしまうことはままある。

 ましてや今やWikipediaは権威である。ある事柄について「知らない」人が検索し、結果の上位にあるWikipediaの記述を信じてしまう。そうなれば「Wikipediaに掲載すればそれを真実として広く知らしめることが可能となる」と、この発想の是非はさておき、そう考える人が出ても不思議ではない。

 それがWikipediaで起きる論争の原因の一つでもあると思う。知識の覇権争い、だろうか。数値など不変の事実であれば対立しようがないが、見解が分かれる項目や話題性の高い項目となると、衝突は不可避となる(なお衝突が起きると各項目に設置された「ノート」という場で調整を行う)。

 もともと編集者も仲裁者も定められていないのだ。参加者に上下関係もない。誰かが仲裁に出ればいいが、論争の間に割って入るのは勇気がいる。相手が誰かも分からず論点を整理してほぐしていくなんて、好きこのんでやれるものではない。深刻な事態に発展すればWikipedia関係者が入り調停や投票が行われることもあるが、実際には押しの強い人の記述が勝ち残る……なんてことは少なくないだろう。

 なお記事に問題が生じていると注意書きが示されることもある。記事の信頼性を判断する上で目安になるだろう。だが示されていなければ問題がないとは限らない。誰も問題視していないだけかもしれない。