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 わずか1年ばかりの英国暮らしではあったが、日本に戻ってきて、その良さを改めて感じている。

 もちろん、欧米社会の良さもある。二言目には「欧州では…」「米国では……」と話しを始める欧米論者の「出羽の守(“では”のかみ)」の先生方が言うことにも一理あって、学ぶところはたくさんある。

 例えば、その合理性である。合理性の塊のように語られるドイツは2022年までに原子力発電を完全に脱することを決めた。確かに、この決定には福島の原発事故が影響を与えたと思う。だがドイツの脱原発運動は、チェルノブイリの原発事故で被害を受けた地域の住民が、自然エネルギーによる電力供給を成功させたり、反対派が電力独占企業と対立したり、1つひとつの困難を乗り越えて20年以上の時間をかけて進められてきたものだ。長年の議論の末に1つの考え方に合理性があると認めれば、全国民がキチッとそこに統合される様は見事である。

 その一方で、欧米の情報が怒涛のごとく入ってくるわが国なのであるが、その決定は、右へ左へ、二転三転と大きく揺れ、合理性からは程遠いように見える。

 国際競争に負けて日本が滅びるなどと絶叫し、経済成長のためにさらなる無駄を斬り捨てようとする人々がいる。だが彼らが主張する合理性は、日本社会ではなかなか受け入れられない。ひと昔前には世界中からエコノミックアニマルと恐れられ、成長街道をばく進していた国民とはとても思えないのである。

 あれだけの大事故を経験した日本の原発問題も、政権を担当して対応に苦しみ、過去においては脱原発を元総理までもが主張した政党が、事故のわずか1年後には原発の再稼働を決定しようとしている。すべての原発を停止させたのだからドイツより大胆なのかもしれないし、再稼働は過渡的な対応なのかもしれないが、あいまいな判断の不思議さは注目に値する。説明責任という言葉は、合理性に強いこだわりのない国には不向きのようである。

 そうした態度は、中途半端だの、いい加減だのと、否定的、批判的に評価されることもある。けれども、対立する価値の双方に配慮する多様性を前提とした判断は、悪いとも言えない。