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日米ともに穏便に事件を解決したかった

 第五福竜丸事件の影響は、大きく2つに分けることができるだろう。まず日米間の対応。次に日本社会全般の対応だ。
 まず米国の対応だが、読売新聞の報道で事態が表面化すると、3月19日にビキニ環礁周辺の危険水域を大幅に拡大した。次に、第五福竜丸は事前に通告した危険水域内に入っていたのではないか、米国の核実験を探るスパイ行為をしていたのではないかと嫌疑をかけた。
 事件発生時の米国社会はスパイと共産主義者摘発の熱狂の渦中にあった。1950年にはローゼンバーグ事件が起きてる。ドイツ出身の科学者ジュリアス・ローゼンバーグとその妻エセル・ローゼンバーグがソ連に核開発の機密情報を流した容疑で逮捕されたのだ。証拠は共犯者の自白のみで夫妻は無実を主張した。しかし、1951年の判決は死刑。第五福竜丸事件の前年の1953年6月19日、刑が執行された。この事件は今なお謎が多いが、当時は知識人を中心に助命運動が行われ、死刑執行にあたっては米国の世論は真っ二つに分かれた。
 1954年当時、このようなスキャンダラスな事件や、核爆弾開発でソ連が追いついてきているという事実を背景に、共和党上院議員のジョセフ・マッカーシー(1908~1957)を中心に、政府中枢にいるとされた共産主義者シンパの摘発が進んでいた。いわゆる「赤狩り」だ。赤狩りは政府中枢部からハリウッドの映画スターにまで及んだ。例えば世界的喜劇俳優のチャーリー・チャップリン(1889~1977)は、赤狩りにより1952年に事実上の国外追放処分となり欧州へと去っている。
 第五福竜丸事件が起きた時、米国では、マンハッタン計画の指導者でありながら、戦後は水爆開発に反対し続けていた物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904~1967)への審問が行われていた。彼は米原子力委員会のアドバイザーであったが、第五福竜丸事件の余波が続く4月12日、米原子力委員会はオッペンハイマーを休職という名目の、事実上の公職追放処分とした。その後オッペンハイマーは生涯にわたってFBIの監視下に置かれ、公職に復帰することはなかった。
 オッペンハイマーに代わって、熱烈に水爆開発を主張する物理学者エドワード・テラー(1908~2003)が核兵器開発の実権を握った。キャッスル作戦はテラーが発案、指導したものだった。要するに、第五福竜丸事件発生時の米国は、誰がどうつついても「スパイだ!」「共産主義者の仕業だ!」と叫びだしかねないヒステリックな状況にあった。

 一方、日本政府はといえば、つい先だってまで日本を占領していた米国を刺激してはまずいという立場にあった。経済的には未だ復興途上の状態で、これからまだまだ米国経済を当てにしなくてはいけないのだから米国の機嫌を損ねるわけにはいかない。もちろん、アトム・フォー・ピースで米国から原子力技術を入手できる可能性が出て来たところで、国民に反原子力の気運が出てくるのはまずいと思ったろう。
 これに対し、冷戦が深まるにつれて、米国にとっての日本は対共産圏の防波堤という位置付けを強めていた。自衛隊は昭和25年(1950年)に警察予備隊の名称で発足したが、その後、保安庁という名前になり、第五福竜丸事件の3カ月半後の7月1日に防衛庁となる。これは、日本を共産圏の防波堤とするという米政策と、やはり軍事力は必要と考える日本政府との思惑が一致した結果だった。
 つまり、米国としても日本の機嫌を損ねることはできなかった。第五福竜丸事件をこじらせて、日本で大規模な反米運動が発生。その勢いで親ソ政権が誕生な どという事態は、米国にすれば悪夢以外の何物でもなかった。
 この状況で、両国政府には期せずして同じ動きが生まれた。「さっさと事件を終わらせてしまおう」というわけだ。
 被爆時の第五福竜丸の位置は、航海日誌から確認できた。北緯11度53分、東経166度50分。ビキニ環礁の東方約160kmの位置だ。一方米国の設定した危険水域は、北緯10度15分から12度45分、東経160度35分から166度16分の矩形の水域だった。第五福竜丸の位置は、危険水域の東の縁からは約30km離れていた。

第五福竜丸が被曝した位置と、米国が設定していた危険水域(赤で囲った四角の部分)。キャッスル作戦ではビキニ環礁と西隣のエニウェトク環礁で爆発実験を実施する予定だったので、両環礁を囲むようにして危険水域が設定されていた。第五福竜丸は危険水域の東側にいた。第五福竜丸のほぼ真南に位置するロンゲラップ環礁でも住民64人が重度の被曝被害を受けた。
第五福竜丸が被曝した位置と、米国が設定していた危険水域(赤で囲った四角の部分)。キャッスル作戦ではビキニ環礁と西隣のエニウェトク環礁で爆発実験を実施する予定だったので、両環礁を囲むようにして危険水域が設定されていた。第五福竜丸は危険水域の東側にいた。第五福竜丸のほぼ真南に位置するロンゲラップ環礁でも住民64人が重度の被曝被害を受けた。
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 これにより危険水域進入の嫌疑は晴れ、またスパイ容疑も薄らいだ。スパイなら危険水域ぎりぎりに接近して核爆発を観察しようとするからだ。同時に、日本側には米国に対する賠償請求権が発生した。日本側は後で述べる海産物の風評被害も含めて、被害額を15億円と算定した。
 結論だけ書くならば、日本政府は米政府に対する責任追及を行わないと約束した。その約束を前提に、米政府は翌年1月、日本に対して補償金ではなく「見舞金」として200万ドル(当時は1ドル360円の固定相場制だったから邦貨換算で7億2000万円)を支払った。米国は責任を認めず、しかも日本が算定した被害額を半分以下にまで値切ったわけである。それでもドルの闇相場などというものがあった時代だから、200万ドルというのはかなりの額だった。ちなみに昭和29年度(1954年度)の日本の一般会計予算は1兆408億円だった。
 この補償金は、第五福竜丸の被害者への補償だけではなく、風評被害で売り上げが落ちた水産業全般への補償として使われた。が、その過程で官僚からの天下りを抱えた業界団体多数が、補償金をむしり合うという、なかなか日本的な風景も現出した。中にはせしめた補償金でビルを新築する業界団体もあった。
 第五福竜丸乗組員への補償金は1人200万円。死亡した久保山愛吉氏の補償金には上乗せがあった。当時としては大金ではあるが人生行路を無理矢理曲げられ、その後を健康被害に怯えつつ生きねばならなかったことを考えればはした金である。今ならば生涯賃金から逸失利益を算定するので、こんな額では済まないだろう。
 それでも、まったくひどい話ではあるが、彼らには漁師仲間から「いいよな、ピカ浴びてカネ貰ってぶらぶら暮らせるなんて」という妬み・やっかみも集まったという。それだけではなく、彼らは様々な局面で、有形無形の妬み・やっかみにぶつかった。生きるか死ぬかの治療を受けていた東京の病院では、「彼らだけ特別扱いされている」と他の入院患者から言われたという。
 当時の日本は貧しかった。「ピカ浴びても金欲しい」と安易に思ってしまう人は決して少なくなかったのである。