建築の表現は、構造技術と一体になって進化してきた歴史がある。「私たちの世代も、そうした指向を強く持っていた」。そう語ってくれたのは、4月にオープンした「新丸ビル」のコンセプトデザインを担当している英国建築家、マイケル・ホプキンス卿だ(関連記事:close up)。ちなみに1935年生まれ。
周知のように、地震国日本の建築では特に構造エンジニアリングが重要な役割を果たす。エンジニアとは名乗らず、建築家・構造家を自認する人もいるし、見たところ、建築の世界での発言力も相対的に強い。表現面に限らず、決定的な役割を果たし続けてきたことは間違いない。
ただ、そちら方面の発展と比較し、建築家と呼ばれる人が社会“構造”との関係で空間(都市環境、生活環境…)のあり方や職能を追求する営みは、手薄だったと言わざるを得ない。本来の“アーキテクト”になっていない、と指摘されたりするゆえんだ。「政」や「官」の中にだって建築家「的な働きをする人」がいてもよいはずだ、という意味においてもやはり弱体だった。
社会や生活のシステム設計にかかわる人は、どの分野にせよ多いわけではない。しかし、そこで建築は極めて重要なファクターであるはずなのに、あまりにもコミットが希薄になってしまった。
では、意匠と構造の統合が技芸の頂点の域に達したかのような日本の現代建築に、世界(他国)がせん望のまなざしを向けているのかというと、どうやらそれも雲行きが怪しい。思った以上にシラけた視線を感じた、と昨日(木曜)お会いしたある建築家の方が最近の体験談を披露してくれた。ワザの部分ばかりがブラッシュアップされた“美しい日本の建築”が、国際的な議論の場でむしろ攻撃の対象にされてしまったというのだ。
それはおそらく(社会と切り結ぶという)行き場を失ったエネルギーが引きこもり、“ギジュツオタク”の道に走ってしまった、ということではないか。出来のよいフィギュアを愛でる気持ちは否定しないが、それが焦点になるようでは国際社会における建築として、それよりも(変転する)生活の器として通用しないおそれがある…。
実は、冒頭のホプキンス卿のコメントは、構造の話ではなく、ここに来てまた表立った議論になっている地球温暖化問題(関連記事:ニュース)に、どう臨んでいるかを聴いた際のものだ。自分よりも下の世代の所員(アーキテクト)は、環境(設備)技術と建築表現の統合に非常に強い関心をもって取り組んでいる、という回答だった。この分野は日本では、大手組織やゼネコンが主導するところだが、国際的な発信力をもつ建築家はまだ少ないと言った方がよい。
で、別の側面の「オタク化」の進行の話。この道の“キング”である岡田斗司夫氏は最近、シングル(単身者)が「30代のメジャー層になった」状況を踏まえた上で、マンガ喫茶が「ネオホームレスの溜まり場」になっていること、それだけでなく家の中についに書斎(などの居場所)をもてなかった「すべての男は、実はホームレス」なのだ、と説いている。そしてある一群がそれもよし、と自足しているのは、バーチャルな世界に「本籍」を移し、「こっちの世界が仮宿」になっているからだ、と。
居場所がないときに、オタクには逃げ場を開発する才覚がある。専門誌を編集する立場として(個人的な感覚としても)、オタクであることそのものは否定しない。しかし、バランスを取る視点(役割)がどこかにないと、幾らでも邁進しますよ、特にこの国は。といったところか。
ところで皆さん、今お手元のブラウザの「HOME(ホーム)」をどこに設定されているでしょうか。初期設定のままの方もいるかもしれませんし、おそらく閉じるときにもHOMEに戻ってから、という人はほとんどいないだろうと思います。ところが、仮想世界「セカンドライフ」では、(目下もう一人の私は「持たざる者」なので)「ここにアバターを放置したままソフトを終了していいのか…」という不安でもあり、自由でもある気分を引き起こさせるのです。三次元の仮想社会の不思議さを感じることができます(関連記事:ネクストエー)。