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内藤廣氏は、50歳の節目に大学教授として土木の世界に足を踏み入れ、今も建築家と二足のわらじをはく。40代になって代表作を次々と生み出したが、40歳直前まで建築を一生の仕事とするか迷い続けた。大学時代から現在までの「自分史」を振り返ってもらうとともに、学生に対するアドバイスをもらった。7回にわたってインタビューの全文を紹介する。

――大学に進学するに当たってなぜ建築学科を選んだか、という辺りからお聞かせください。
内藤 建築家の山口文象(1902-78年)さんの進言が大きいですね。僕の母親の実家が山口家の隣で、幼いころは山口家のプールで泳いだりしていました。山口さんがそんなに偉い建築家だとは知らずに、高校の時に相談に行って「何をやりたいかよく分からない」と言ったら、「建築をやっていたら何にでもなれるから取りあえずやってみたら」と助言されました。建築は人間の生活や人間そのものを扱うのだから、そのつもりで行けば、最後は建築家にならなくても構わないだろうという話でした。
 大学受験の1年目は安田講堂の炎上で東京大学は受けられなくて、1浪して2年目で行こうとしたら失敗して結局、早稲田大学に入りました。早稲田でもまだ学生運動が残っていてあまり面白くなくて、もう1回受け直そうかと山口さんのところに相談に行ったらやめておけと。青春は1年1年が大事なのだから、そんな無駄なことに使うなと。「早稲田には吉阪隆正(1917-80年)という面白い建築家がいるから、彼のところに行ったらいい」と言われました。道筋を山口さんに付けてもらって、だんだんはまっていったというのが僕の大学時代ですね。

――早稲田大学の吉阪研究室に入って建築に開眼したというか、建築の面白さは分かってきたのですか。
内藤 全然分からなかったですね。当時、吉阪先生はとても忙しかったので、直接教えてもらうということはほとんどありませんでした。建築というよりも、人間に対してどう考えるか、社会に対してどう考えるかということを無言のうちに教えられました。吉阪先生の生き方そのものがすごく、すさまじかった。建築よりももっと根源的な話です。
 僕が吉阪先生と付き合ったのは、吉阪先生が亡くなるまでの5~6年間ですが、命懸けだったように見えました。社会的な役割もいろいろと引き受け、夜になればU研究室に行って学生の相手もし、酒も飲んでいた。大変だったと思いますよ。

――吉阪研究室の仲間との思い出はありますか。
内藤 研究室へ行っても先輩がみんな、偉そうにしている(笑)。吉阪先生とは話がしたいけど研究室へはあまり行きたくなくて、同学年を引き連れて、たまたま海外に赴任して空き家だった親せきの家にこもって国際コンペをやりました。
 ちょうどポルトガル領のポルトサント島の国際コンペがあって、それをやろうと。研究室に2人いた留学生を加えて、計7~8人でこもって案を練っていました。研究室には行かないし、研究室会議も僕の学年は全然出ないから、吉阪先生が心配して「どうした?」と電話をかけてくることもありました。

――内藤さんが『新建築』の月評を執筆していたのは学生時代です。磯崎新氏の批判など挑戦的な言説を重ねていたようですね。
内藤 大学院の1年の時だから、ちょうど引きこもっているときです。片一方では『新建築』の月評を書いて、片一方では立てこもってコンペと、大学にはほとんど行かなかったですね。
 磯崎さんはすごく頭のいい人で、実に綿密な論理をつくり上げる人ですよね。そういう意味で素晴らしいと思う半面、若さゆえそういうものをひっくり返したいという気持ちもあったんでしょうね。ずいぶん生意気なことを書きました。それに、山口さんからは、「建築というのは人間社会の中で生み出されるものだ」と強く教えられていたので、磯崎さんの見ている局面が、僕には全然違うもののように思えたのです。非常に観念的な部分に対する反発でしょうね。磯崎さんはもちろん、いろいろなことを分かった上で戦略的にそういうポーズを取っていたと思うのですけど、若者として反発したかったということです。

――そういった活動をしていて、大学は無事卒業できたのですか。
内藤 成績は優秀でしたよ(笑)。設計課題はだいたい1番だったし、卒業設計も1番でした。あと、僕にはいい友達がいましたので試験の時もちゃんと点が取れていました。

――はたから見ると成績は優秀で建築好きの少年に見えたということですね。
内藤 見えたでしょうね。でも当時は、もう設計をしたり、個人が建築家として立って何かをしたりするという時代じゃない、というような風潮が若者の中にありました。それは学生運動の余波だと思いますけど。個人の建築家がどうこうしたというのは非常に古典的な世界で、もはや僕たちの未来には、そういうことはあり得ないと言う大人もいたし、若者もそういう気分に浸っていた時代ですね。

――社会の動きに対して何ができるかということをみんなが真剣に考えていた時代だ、と。
内藤 1970年代だから、まだ60年代後半の学生運動が残っていた。それから三島由紀夫事件が起こって、ニクソンショック、要するにドルショック。さらに、オイルショックもあった。環境に関しては、例えばローマクラブが環境問題を言い始めていました。一方では東西の冷戦が真っただ中で、ベトナム戦争が続いていたという時代ですからね。そんな中で、いい建築をつくるなんてことは、どれほどの意味があるのかって考えるのは当たり前ですよね。

――周囲の学生もうそういう状態だったんですか。
内藤 そういう考えの人は多かったと思います。それであきらめていった学生もたくさんいるように見えた。だから非常に多くの才能が、あの時期、絶望しながらデザインや物づくりから離れていったという感じがあります。


内藤 廣氏
1950年神奈川県生まれ。76年早稲田大学大学院修士課程修了。フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所、菊竹清訓建築設計事務所を経て81年内藤廣建築設計事務所設立。2001年東京大学大学院工学系研究科社会基盤学助教授、03年同教授。近作は島根県芸術文化センター(05年)、とらや東京ミッドタウン店(07年)、JR日向市駅舎および駅前広場(08年)など(写真:柳生 貴也)