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内藤氏は早稲田大学の大学院を修了し、単身海外に渡った。周囲のアドバイスにも目をくれず、国内での著名建築家との付き合い、友人関係などもすべて絶ちきり、スペインへと旅立った。

――1970年代の社会の中で悩みながら、なぜスペインの事務所に行かれたのですか。
内藤 やけくそですよ(笑)。建築で立っていくということはもうあり得ないとも感じていましたし。自分の未来は、1対3ぐらいの割合でうまくいく可能性の方が低いだろうと思っていました。だけど1人ぐらいは、あほなやつがいてもいいかと。
 周囲の人たちにはいろいろと言われました。親は「まずは大きい企業に就職して、それからでも遅くないだろう」と。「どうせ行くのだったら、パリやロンドン、ニューヨークじゃないの」と言う人も多かったです。まずは有名なところに行って修業しなさいと。
 だけど自分としては、スペインでフェルナンド(イゲーラス)のやっていたことが唯一気になっていた。それから、実は時代の捨て石になろうという気分もあったんですよ。

――スペインに行って何か実りはあったのですか。
内藤 いくつかありますね。大きいのは日本との関係がほとんど切れたということです。学生で月評を書いたのは僕が初めてで、宮脇檀さんや西沢文隆さん、林昌二さんなどといった建築家とも大学院の1年から割と親しく付き合わせてもらった。浮かれた感じで言えば、それまでの国内の関係で、何とはなしに建築家になっていくという道もあったわけですけど、いったん全部切ったのです。当然、雑誌編集者との関係も切りました。そうした付き合いのほか、友人関係も全部、遮断されたのがよかったんじゃないですかね。

――それは、結果的に関係が切れてしまったということですか。
内藤 思い出すと意図的に切ったのだと思います。例えば、日本のジャーナリズムからは、多少は文章を書ける人間がスペインに留学しているのだから、いろいろなことを書いてほしいという依頼が1~2回あったと思います。それも全部断りましたから、たぶん切るというつもりでいたんじゃないですかね。

――その間に建築を好きになっていったということはあったのですか。
内藤 ますます分からなくなりました。

――帰国して菊竹清訓氏の事務所に入ったのはなぜですか。
内藤 吉阪先生からは2年で帰ってこいと言われていて、「ニューヨークに来ないか」という話も断ったのです。帰るに際しては、陸路でシルクロードを通って帰ろうと考え、ネパールまで出てそこから飛行機で帰国しました。半年ぐらいかかったと思います。そのころ、家内と一緒になったのですが、帰国して家内に1年間は働かないという宣言をした。昼は山のような本を読んで、夜はデッサンをしたりして、ともかく設計は何もしなかった。

――何もする気が起きなくなったということですか。
内藤 今から考えるとめちゃくちゃですが、何もしないと決めていたのです。ただ、それは半年後の吉阪先生からの電話で挫折しました。「お前、何をやっているんだ。大学に出てこい」と。それで、当分何もしないつもりですと説明したら、大学に戻ってこないかと言われたのです。
 当時、吉阪先生はものすごく忙しく、いろいろな役職をしていて、「先生、肩書はいくつあるのですか」と聞いたら、確か「30以上ある」と。「そんな忙しい人のところに戻ってきてもしょうがない」と返事をしました。今から考えれば生意気ですよね。
 「じゃあ、どうしたいんだ」と問われたので、スペインではプランニングを学んできたので、日本で建築をやれるように実務を勉強したいと伝えました。「じゃあ、君は自分が一番ふさわしくない事務所はどこだと思う」と聞くので、菊竹さんのところはあまり向いていないと思いますと答えました。やにわに横にある電話をつかんで、「菊竹君かね。スペインから帰ってきた妙なやつがいるんだけど面倒見てくれないか」と。電話を代わって菊竹さんと話したら、「明日から来てください」って言うんですよ。
 「1週間ほど時間をください。それからうかがいます」と電話を切りました。菊竹さんの作品を一つも見ていなかったので、山陰も含めてずっと見て回って、10日後ぐらいだったと思いますけど菊竹さんのところへ行って所員になったという経緯です。

――当時の菊竹氏の事務所はどういう雰囲気でしたか。
内藤 1960年代に菊竹さんがつくってきたものに対して、菊竹さん自身が非常に試行錯誤しているような印象はありました。どちらかというと構想を掲げて切り込んで、スピリットのようなものを問うというのから、もう少し村野(藤吾)建築のような、要するにディテールに意味があるみたいなことを考え始めていた時期だったと思います。

――そういった中で、内藤さんはどういったことを学んだのですか。
内藤 結局、実務というより物事に対する考え方を学びました。菊竹さんは、やはり天才的な人だと今でも思います。常人じゃないですよ。当時はまだ1977~78年。どういう場面かは覚えていないけれど、「オフィスの使用状況が違うのをセンサリングして、例えば、人の重さの違いによって構造をコントロールできないか」って菊竹さんは言ったんです。
 つまり今のコンピューターでできるかできないかの話です。それから、ある空間を設計していた時に柱がどんと出ると「君、その柱は付けたいのか付けたくないのか」と。松井源吾さんの事務所で検討してもらったら、このくらいの太さが必要だという結論になったと話すと、「その柱をタングステンにしたらどうだ」と言うんです。普通そんなことを言いませんよね。
 「タングステンにしたら、断面は4分の1で済むじゃないか」と。そういうすごさがあるんです。僕らとは全然、違う次元で発想を切り開いていた。おそらく60年代も菊竹さんはそういうところがあって、伊東豊雄さんや長谷川逸子さんなど、所員だったみんなが植え付けられていたのではないかと思います。伊東さんもいろいろな発想の中で技術的な要素を非常に柔軟に取り入れていきますよね。それは菊竹さんの遺伝子のように見えますね。


内藤 廣氏
1950年神奈川県生まれ。76年早稲田大学大学院修士課程修了。フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所、菊竹清訓建築設計事務所を経て81年内藤廣建築設計事務所設立。2001年東京大学大学院工学系研究科社会基盤学助教授、03年同教授。近作は島根県芸術文化センター(05年)、とらや東京ミッドタウン店(07年)、JR日向市駅舎および駅前広場(08年)など(写真:柳生 貴也)