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内藤氏は40代に、美術館の設計をはじめとする多くの仕事に恵まれた。だれもが順風満帆かと思うなか、40代後半には「このままでいいのか」という思いがわきあがってきた。

――40歳直前に次いで、50歳ぐらいで再び転機が訪れたように見えます。
内藤 僕は割と10年ごとに山場が来るんですよ。例えば、30歳を少し過ぎて独立して、海の博物館が完成するまで10年ちょっと。この間はもう本当に試行錯誤の連続でした。海の博物館で評価してもらっていろいろな仕事にかかわれるようになって、40代は美術館をはじめ、様々な仕事をさせてもらいました。
 学生時代にみんな考えるじゃないですか、一生のうちに一度は、美術館や博物館を設計できたらいいなと。それから考えれば、僕はとても恵まれたチャンスをもらった。それはそれで苦労しましたけど、40代はそうやって30代とは違う大変さを経験できました。
 しかし、このままでいいのかという思いが40代後半にわきあがってきました。20億~30億円の仕事だったら大方のことは想像できるようになってきたし、文化施設あるいは公共施設のことも大方、分かってきた。でも、それだけでいいのかという思いがあった。かつてシルクロードから帰ってきて1年間働かないと宣言した時と同じように、50歳になったら1年強、事務所を畳もうと本気で考えていましたね。


高知市五台山に建つ「牧野富太郎記念館」。1999年に完成した。内藤氏の設計手法の転換点になった建築 (写真:三島 叡)

――高知市に牧野富太郎記念館が完成したころのことですね。
内藤 「牧野」が終わったぐらいでキリがいいし、1年ぐらい何もしないで消えようかなと。そしたらあと10年ぐらいやれるかもしれないと思っていました。篠原修さんに東京大学に来ないかと誘われたのがちょうどそのころです。それはそれでまた面白いかな、全然違うテリトリーで何かするというのもいいかなと考えたわけです。
 当初は3年、5年、10年のいずれのスパンになるか分からなかった。3年とは、東大に呼ばれたけれど、社会基盤の先生たちに認められずに辞める場合。5年というのは、篠原さんが僕を呼んでくれたので、篠原さんが辞めるときに一緒に辞めるという場合。そして定年まで10年続ける場合です。結局、その3番目の選択肢になった。

――10年続けたいという気持ちがあった、と。
内藤 研究室を考えたら、さすがに篠原さんと僕が2人ともいきなり抜けるのはまずいかと。せっかく篠原さんが景観の分野を立ち上げてやってきたのに対して流れを切ってしまうところもあるし、やれる間はやろうかと考えたわけです。


内藤 廣氏
1950年神奈川県生まれ。76年早稲田大学大学院修士課程修了。フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所、菊竹清訓建築設計事務所を経て81年内藤廣建築設計事務所設立。2001年東京大学大学院工学系研究科社会基盤学助教授、03年同教授。近作は島根県芸術文化センター(05年)、とらや東京ミッドタウン店(07年)、JR日向市駅舎および駅前広場(08年)など(写真:柳生 貴也)