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建築史・建築批評家の五十嵐太郎氏による連載コラムの第2回目を掲載する。第1回(「ヤンキー・デザイン」の危険な魅力)には読者からの多数のコメントが付いた。五十嵐氏から改めて、前向きに意見を交わしていける連載とすることの提案をいただいた。


ヤンキーから建築を考える(第2回)


 前回の寄稿で改めて驚いたのは、コメントが多かったこと。ケンプラッツのNAデザインのほかのコラムをチェックしたのだが、さほどコメントがないところを見ると、明らかに「五十嵐」が「ヤンキー」というテーマに触れたことに激しく反応したと思われる。ヤンキーフォビア(ヤンキー嫌悪症)というべき雰囲気すら感じる。

 それで思い出したエピソードを紹介しておく。なぜ、この2月に河出書房新社から出版されるヤンキー文化論の編者になったか、についてである。

 2008年に「カルチュラル・タイフーン」という文化研究のイベントが仙台で開催されることになり、企画にかかわっていた筆者は、メーンセッションのテーマ候補としてヤンキーを提案した。東京でよく行われているテーマの縮小再生産のようなシンポジウムをやってもつまらない。ならば、ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』を含む、不良の研究を源流の一つとするカルチュラル・スタディーズの精神を受け継ぐイベントにとって、ヤンキーはまさにふさわしいテーマではないか。しかも地方だからこそ、やるべきではないか。

 ところが、このアイデアは良識的なある先生の猛反対を受けて、つぶれた。そこで納得がいかない筆者は、同じ企画書をすぐに編集者に持ち込み、その意義を理解してもらい、出版につながった。つまり、結果として、企画を反対されたことで、なにくそと思い、筆者が編者となったという行きがかりである。

責任を持ったコメントは尊重したい

 ともあれ、これだけのコメントがあるのならば、それとの応答で連載をやってみる方法もあるかもしれない。

 「社会のマーケットを捉えたデザインが批評性を持つとは限らないし、批評性のあるデザインが売れるとも思わない」という三浦昌人氏の意見は、実感からいっても同意できる。僕の場合だって、より批評性があると自分では思う原稿と、社会のウケは必ずしも一致しない。例えば、秋に共著で刊行した『建築と音楽』(NTT出版)は、個人的に長い時間をかけた重要な批評的論考だが、残念ながら、建築系の反応は皆無である。

 一方、自分でもまだ未知数が多いと思っているヤンキー論は、イントロダクションだけで、蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。とはいえ、せっかくだから今後はコメントがあれば、できるだけ拾いながら、連載を続けたい。ウェブの特性も生かせる。展開も楽しみだ。

 ただし、これはサイトの構造的な欠陥でもあるのだが、基本的に匿名の意見は取り上げない。言いっ放しではなく、三浦氏のようにコメントの中に名前を入れている責任を持ったコメントは尊重したいと考えている(※編集部注)。ときには事実誤認も含む匿名のコメントすべてに答える余裕はない。

 前置きが長くなってしまったが、数多くのコメントに対して、インタラクティブに応答したからだ。お許しいただきたい。どうせやるなら、雑誌ではできないタイプの連載にしたいというのが狙いでもある。

 さて、森田恭通のデザインだが、幾つかの特徴を挙げておこう。

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