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建築史・建築批評家の五十嵐太郎氏による連載コラムの第3回目を掲載する。前2回に続き、テーマは“ヤンキー・デザイン”。ヤンキーをどう定義しているのか、と問う内容の読者コメントが複数あり、この点に回答する格好となった。

[第1回]「ヤンキー・デザイン」の危険な魅力
[第2回]「ヤンキー論には語る意味がある、コメント歓迎」
[第3回]本稿


ヤンキーから建築を考える(第3回)


 ノンさん、毛利真也さん、小林さん、それぞれのヤンキー観を披露してくれたkisouchiさんと津島さん、池田猛さん、HTさん、そして異質さをめぐって論を構築的に展開されている「森田デザイン=見立て」論さんほか、多くのコメントをありがとうございます(1月30日現在)。

 既に昨年から編集委員長として学会誌の『建築雑誌』で実験的な企画を試みたり、別のサイトで音声配信する建築系ラジオを始めているように(第二部=http://radio.tatsumatsuda.com/ 、第一部=http://tenplusone.inax.co.jp/radio/ )、この連載でもやはり興味深いと思っているのは、メディアの持つ可能性だ。筆者よりも上の世代の書き手は、ウェブでのやりとりや評判をあまり気にしていないが、書き始めた頃に紙からネットへの移行期を経験している世代としては付き合うべきテーマだと考えている。むろん、さらに下の世代は全く異なる付き合い方をしていくだろう。

 10年ほど前、それなりにパブリックな『みんなの建築』というネット上の掲示板で、匿名の人物から「五十嵐死ね」と書かれたことがある。誰か分からない。突然、暗闇で後から殴られているような不愉快な気分だった。顔を隠して、上から目線で他人を批判すると、気持ちがいいのかもしれない。これに対して、まっとうにコメントを返したところ、おそらく返事もなく(匿名なので判断できないが)、荒らしも参戦して、掲示板は無茶苦茶になった。

 その後も幾度かネット上の議論にかかわったが、少なくとも筆者の経験上、匿名ばかりが語る場所では、実りある結果を得ていない。言葉に対する責任の問題のせいだろうか。例えば、筆者が森田恭通をヤンキーという切り口で語ることは、将来、何かの仕事で彼に初めて会うとき、的外れだよと言って本人から怒られるリスクも覚悟している。それでも何も言わないよりは、考えるきっかけとなる仮説をつくることは意味があると思う。

ビジュアル的な手掛かりの一例が「改造車」

 ヤンキーの定義がはっきりしないという意見を複数いただいた。3月に刊行する『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社)のまえがきでも、この問題に触れるのだが、語源のレベルでも諸説あり、地域や世代によってもヤンキー像はかなり違う。実際、この本で論じてもらった近田春夫、宮台真司、都築響一、斎藤環、速水健朗、成実弘至、永江朗、酒井順子、暮沢剛巳、南後由和など、人によってもイメージはさまざまだ。そこでこう書いている。

 「事例に違和感を覚えるものもあるかもしれない。とはいえ、本書は最初の試みであることを優先し、あえて細かい定義を行わず、ヤンキー的と思われるさまざまなトピックを扱う」。

 むしろ、序説に刺激され、本格的な議論がここから始まることを期待している。また、執筆陣にもヤンキー体質の人を選んだわけではない。当事者以外は語ってはいけないという本質論は信じないが、分析するまなざしにオリエンタリズム的なフィルターが介入したかもしれない。批判は甘んじて受ける。そうした批判が建設的な方向につながっていけばいい。

 とはいえ、筆者の場合は、デザイン論という性格上、ヴィジュアル的なヤンキー像に依拠している。特に都築響一が編集した写真集『Hell on WHEELS―暴走族の改造単車コレクション』(アスペクト、新装版2000年)に紹介されたさまざまな改造車。ヤンキー系の雑誌『ティーンズロード』(ミリオン出版・休刊)から転載されたものであり、派手を絵に描いたようなデザインのオンパレードだ。

 日曜大工的に手を入れるヤンキーのブリコラージュ。だが、それは走行性能を上昇させるチューンアップではない。ロケット・カウル、三段シート、延長テール、回転灯、拡声器、ラッパなどを装着し、目立つ部分に手をかける。先端をのばし、とがらせること。千葉、茨城、群馬などの北関東、チバラギでは、ロケット・カウルの角度や高さを競う。エビのように反った異形の姿。もはやバイクには見えない。激しくそそり立つ造形は、祭りの山車のようだ。福岡では、暴発カラーと呼ばれる独自の派手な塗装を行う。赤、白、青、黄、ピンク、紫など、鮮やかな原色が車体を包む。関西では、豹(ひょう)柄や金華山など、派手なシートを貼る。

 むろん、森田がこうしたデザインをポストモダン的にベタに引用しているのならば、話は簡単だ。わざわざ筆者が指摘する必要もない。そこには洗練や統一されたデザインという差異があるのもよく分かっている。アフリカ美術とピカソのアートの関係。あるいは、『ティーンスズロード』の投稿→浜崎あゆみ→ケータイ小説をヤンキー的な感性の継承として分析する速水健朗。これらは違うのだから、そのまま違うといって思考を停止するのも一つの立場だ。しかし、筆者は、あえて補助線を引くことによって、さまざまな思考を誘発する契機を生むことに関心を抱く。

 また連載が前回の予告と違うものになってしまった。お許しください。


[五十嵐太郎氏プロフィル]

建築史・建築批評家、東北大学大学院工学研究科准教授。1967年パリ(フランス)生まれ。90年東京大学工学部建築学科卒業、92年東京大学大学院修士課程修了。主な著書に、『終わりの建築/始まりの建築』(INAX出版)、『現代建築に関する16章』(講談社)、『戦争と建築』(晶文社)、『新編新宗教と巨大建築』(筑摩書房)、『「結婚式教会」の誕生』(春秋社)など。2008年に第11回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナーを務める。ウェブサイト「50's THUNDERSTORM」(http://www.cybermetric.org/50/)