PR

大学3年生の後期。当時入り浸っていたというゲームセンターで何気なく取り組んだ設計課題を、大学で褒められたことがきっかけで建築の勉強に没頭し始めた。それからは、兄である建築家の西沢大良氏をはじめ、恩師の山田弘康氏や三沢浩氏、北山恒氏、アルバイトをして出会った入江経一氏など、机の上の勉強ではなく多くの人から刺激を受けながら建築への理解を深めていった。西沢立衛氏へのインタビュー全文を6回に分けて紹介する。

――まず、大学で建築の道を選んだ理由からお聞かせください。

西沢 特に理由はないんです。文系か理系かでいうと理系だったんですが、大学受験をどうするかというとき、先生に「芸術分野が得意だから建築だろう」と言われました。先生にそう言われて「そんなものかな」という感じで進路を建築に決めました。実際、音楽や映画など芸術的なことが好きだったので、理系でも機械や情報工学よりは建築かな、という程度の判断でした。

――建築についての知識は全くない中での選択だったわけですね。

西沢 全くなかったです。図書館に行くにしても本を借りることが重要で、ゲームセンターへ行くにもゲームという、建物の中身の方に興味があった。建物が丸いか四角いか、天井が高いか低いかなんて、当時はほとんど眼中になかったと思います。

 そういえば、子どものころの記憶で、ひとつだけ強く印象に残った空間がありました。教会の林間学校で神奈川県の丹沢に行ったときのことです。渓谷があって、素晴らしい自然だったんですが、そこに原広司さんが設計された「国民宿舎 丹沢ホーム」が建っていました。入れ子構造に高いところから光が落ちてきて、深い暗闇の底みたいな空間に緑色のピアノが置いてありました。その深い谷底のような空間は、子ども心にも非常に印象深くて今でも覚えています。ただ、それが原さんの設計だと分かったのは大学に入ってからです。

――大学の建築学科に進まれた実兄の西沢大良さん(現・西沢大良建築設計事務所)と、「2人で一緒に建築をやろう」などという話があったわけではないんですね。

西沢 それはなかったと思います。それでも、姉と兄は弟の僕にとっては一番身近な先駆者のような存在ですから、影響はすごく受けました。姉は英文学科で、兄が建築学科だったんです。それ以外にも学科はあるけれど、単に姉と兄がそうだからというだけの理由で、自分が文系だったら文学に、理系だったら建築に進学するものだ、と思っていたかもしれません。その2つは単純に行きやすく見えたんです。「理系=建築」と真っ先に思ったのは、やはり建築学科に入った兄の影響が大きかったと思います。

――大学に入学後は積極的に建築を学ぼうという姿勢で通われていたんですか。

西沢 横浜国立大学に入学した最初のころは、あまり良い学生とは言えませんでした。友達とビリヤードや麻雀をやったり、ゲームセンターに入り浸って小中学生に混ざってゲームをしたりする毎日でした。建築が面白いと思い始めたのは大学3年生の後期です。相当遅かったですね。

――3年生になって建築に没頭するようになったきっかけは何ですか。

西沢 友達の家に泊り込んでは、2人で毎日ゲームセンターに通っていたのですが、当時のゲームセンターは、まだ今のようにすごいゲームはなくて、シンプルなシューティングゲームやレース、麻雀ゲームなどでした。対戦型のような高度なゲームはまだない時代だったので、友達がやっている時間はやる事がなくて手持ちぶさたなんです。そうしているうちに、待ち時間に設計課題を始めました。ゲームの傍ら何となく案を考えて、学校に持って行ったら先生に褒められたんです。褒められたのはオフィスビルの計画だったんですが、有頂天になりました。

 当時は「面白いもの」を探していたんだと思います。麻雀をやってビリヤードをやってゲームをやって。その後、自然に建築へ興味が移っていきました。褒められてうれしくて乗ってきた、といっても、当時はル・コルビュジエもよく知らない学生で、相当レベルは低かったと思いますね。それがその後の焦りにつながっていくのですが……。

――建築史などの学問を学ばれたのもかなり後なんですね。

西沢 はい。建築史もほとんど知らない状態だったので、そういった遅れを取り戻すべく、大学院に行こうと考えたんです。そこから緊張と集中の時代が始まりました。自分の遅れを自覚してからの大学院での生活は、それまで回り道をした反省を込めて建築一辺倒の期間でした。コンペなどにはほとんど応募せずに、バイトばかりしていました。

――大学院の2年間で集中して知識を付けたということですね。

西沢 知識を付けるというより、理解を深めたという感じですね。当時の僕には、とにかく建築に対する理解が足りなかったので、まずは理解しようと。それは、いくら知識を付けてもどうにもならないことだと感じていました。だからもっと建築に対する理解を全体的に深めたいと思い、勉強し始めました。

――それを後押ししたような恩師の存在はありますか。

西沢 大学には当時、教授の山田弘康さんのほか、非常勤講師だった三沢浩さん(三沢建築研究所)、北山恒さん(現・同大学院教授)がいらっしゃいました。大学3年生のとき、ゲームセンターの案を誉めてくれたのは、三沢さんと山田さんでした。

 でも、大学院では校内で勉強するというよりも、アルバイト先の設計事務所や自分達で開催する勉強会がメーンでした。

 大学4年生の春に、入江経一さん(現・Power Unit Studio)の所でバイトをしたんです。それが僕にとって初めての設計事務所でのバイトでした。ちょうど兄が入江さんの事務所で勤め始めた年なんですが、兄がいきなり海外旅行に行ってしまった。その不在期間の間、兄の代わりに僕が手伝いに行ったんです。入江さんの事務所で働いた期間は、すごく勉強になりました。

――入江さんの事務所ではどんなことを担当されましたか。

西沢 兄の代わりといっても、建築の勉強を真剣に始めてまだ2~3カ月しかたっていなかったので、役になんか立たないわけです。それなのに入江さんは優しい方で、「じゃ立衛君は、大学の課題でもしようね」という感じでした(笑)。 1~2カ月お手伝いに行きながら、設計の課題をそこでやらせてもらっていました。

 入江さんが建築関係の友達を呼んで、講評会を開いてくださったこともあります。それが大学4年生の前期です。ある日、大学の課題で「開港広場のモニュメント」というお題が出たんです。僕は、モニュメントみたいな物体的なものを建てないで、幻のようなモニュメントを建てるという案を考えたのですが、うまく設計主旨が書けなかった。そうしたら入江さんが僕の代わりに設計趣旨を書いてくださって、感激しました。それだけではなくて、文章にすごく説得力があった。自分が考えた設計案なんですが、入江さんが書いてくださった設計趣旨を読みながら「なるほど!」みたいな(笑)。必死に暗記した記憶があります。

――まわりの人に恵まれているんですね。

西沢 そうなんです。大学生活の最後には、卒業設計で横浜の高速道路を改造する計画に取り組むんですが、入江さんの影響が大きかったことは間違いありません。卒業設計の指導教員は、僕の一番の恩師である山田さんと、北山さんでした。北山さんにはいろいろと批評していただいた記憶があります。

にしざわ・りゅうえ 1966年東京都生まれ。90年横浜国立大学大学院修士課程修了、妹島和世建築設計事務所入所。95年妹島和世氏とSANAA(Sejima and Nishizawa and Associates)設立。97年西沢立衛建築設計事務所設立。2001年から横浜国立大学大学院建築都市スクール Y-GSA准教授。05~06年スイス連邦工科大学客員教授、05~08年プリンストン大学客員教授、07年ハーバード大学客員教授。98年と06年に日本建築学会賞作品賞、10年にプリツカー賞(いずれも妹島氏との連名)を受賞(写真:柳生 貴也)