伊東豊雄氏の事務所でアルバイトしていた大学院1年生のとき、独立したばかりの妹島和世氏と出会った。妹島事務所でのアルバイトを志願した当時を「面白そうな人がいれば近付いていく感じだった」と振り返る。「これまで勉強してきたすべてを捨てよう」と思うほど、西沢氏にとって妹島事務所での経験は決定的だったという。
――妹島和世さんとは伊東事務所でアルバイトしていた時代に出会ったのですか。
西沢 そうです。伊東豊雄さんの事務所でアルバイトを始めた後、大学院1年生の秋に、妹島さんに出会いました。妹島さんが「プラットホームll」(1990年)の設計を始めたころでした。妹島さんはまだ伊東事務所から独立したばかりで、夜になると伊東事務所に戻ってきてワイワイガヤガヤやる。当時の妹島さんは、内から出てくるエネルギーがすごくて、爆発寸前の爆弾みたいな感じでした。服装もすごくて、全身アラビアンナイトみたいな格好なんです。ストリート系とでも言うんでしょうか、とにかく独創的なファッションです。すごいインパクトでした。
それで、「この人の事務所でアルバイトをしてみたい」と思ったんです。当時は面白そうな人がいれば近付いていく感じでしたね。伊東事務所の城戸崎和佐さん(現・京都工芸繊維大学准教授)と仲が良さそうだったので、城戸崎さんにバイトの打診をしてもらいました。当時はバブル時代の後期で妹島さんも忙しかったので、あっさり「いいよ」と。それで、伊東事務所と妹島事務所の両方でアルバイトを始めました。
妹島事務所は伊東事務所と違って人手がなかったので、プロジェクトの担当を任されました。当時は建築の仕事だけでなく、シャワーブースやCDプレーヤーのデザイン、インテリア、TVコマーシャルのセットなど、いろいろなことをやりました。徹夜続きでしたが、すべてが初めてのことばかりで、楽しかったですね。そういう毎日が大学院1年生の冬くらいから大学院修了までの間ずっと続いたと思います。
――その後、妹島事務所に残ったわけですね。
西沢 大学院の2年生になった春に、「伊東事務所に行くか、妹島事務所に行くか」という選択を迫られました。そこで、妹島事務所に就職することに決めました。伊東事務所は仕事がたくさんあってチャンスも多かったと思います。それと比べたら妹島事務所はあまりチャンスがない感じでしたが、それでも行きたいと考え、押し掛けたんです。
――事務所の規模が小さいほうが実務により深くかかわることができる、と。
西沢 僕は建築作品に影響を受けるというよりも、人間に影響を受けてきた面があるんです。伊東さんには大変な影響を受けましたが、当時の伊東事務所は規模もある程度大きくなってきて、伊東さんと毎日議論できる感じではなかった。でも妹島事務所は、妹島さん一人ですから、毎日議論しながら建築をつくっていくんです。
妹島事務所での2年間は、僕にとって決定的なものでした。妹島さんに出会ったことで僕は「これまで勉強してきたすべてを捨てよう」と思うようになったんです。
妹島さんは先入観を捨てて、ゼロから考えるという人で、スタディはまさに迷いの連続でした。とにかく膨大なスタディをやり、思い付くあらゆる可能性を模型にしていって、迷いに迷い、ようやく一つの案にたどり着く。妹島さんは僕らには何も強要しませんが、妹島さんと一緒にやっていて、「先入観は捨てないといけないんだな」と、みんな思うわけです。
当時、妹島さんと議論するたびに、僕が先入観とか知識とかに縛られて、逆に考える自由を失っているということに気付かされました。それからは、面白いことを目指すときはむしろ、ゼロから始めるべきなんだと強く思うようになったんです。
――設計をゼロから始めるというのはどういうことですか。
西沢 例えば、四角が好きだったら、どうしても四角い建物のスタディばかりになってしまって、丸とか三角は普通、スタディの対象になりづらい。妹島さんはそういう好き嫌いを超越しているところがあった。スタディにおいてすごく勇敢で、あらゆる可能性に向けて開かれているという感じでした。
当時すごく感じたのは、妹島事務所は、誰の脳でも使うんだなということです。学生だろうが、向かいの事務所の友達だろうが、参加できる人みんなで案を考える。とにかくみんなで、いろんな案を量産していくんです。
妹島事務所には当時、設計事務所とは思えない材料が部屋に転がっていました。実際に抱えているプロジェクトが建築だけではなかったこともあるとは思いますが、何やら怪しい石の塊とか、当然設計実務の役には立たないだろうと思われる新素材とかアクセサリーとか――。モノだけ見ていると設計事務所には見えない感じでした。
