建築家の年輪
目次
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阿部勤「坂倉準三が、カッコ良かった」
前編
阿部勤氏は、坂倉準三建築研究所への入所から、建築家としてのキャリアをスタート。1974年に竣工した「私の家」を始めとする、RCと木による混構造の建築には、自然と共生するかのような、おおらかさがある。阿部氏の設計思想のルーツを探る。
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近澤可也「クリエイティブを育む“場”をつくる」
後編
近澤可也氏の仕事は、バブルの崩壊と前後する形で、都市から村へと移った。群馬県倉渕村で始まった「花と緑の手づくり村構想」への参加経緯と、生活者としても時間を過ごしながら構想する、新たなものづくりの可能性を聞いた。
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近澤可也「時代を読み、かたちにする」
中編
「情報都市論」を卒業論文のテーマにしたという近澤可也氏。時代を読む感性の鋭さ、徹底した調査・研究を重視する姿勢がある。時代に「ショック」を与えてきた、パンデコンの作品から、その思想について聞く。
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近澤可也「建築は、創造性があって面白い」
前編
近澤可也氏は、丹下健三研究室を経て、建築家として第一線を歩みながらも、企画構想を強みに、多彩な活動を展開してきた。建築界の「異端」とも見られてきたパンデコンを率いる近澤氏のルーツについて、話を聞いた。
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竹山実「建築が拡散していると思います」
後編
竹山実氏はクライアントと建築家の関係性の変化に危惧を抱いている。本来、互いの信頼関係によって生じるはずの、新たな可能性への道筋が失われているのではないか――「建築が拡散している」と指摘する。その真意と、これからの建築に対する考えを聞いた。
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竹山実「選ぶ側」より「つくる側」でありたい
前編
竹山実氏は日本における「ポスト・モダニズム」の先駆的存在として注目を集め、商業施設やホテル等の作品を手がけた建築家だ。一方で、国内外で教鞭をとり人材育成にも努めた。また、デザイン監修者として設計者を「選ぶ側」にも立った。その経験から得た知見を聞いた。
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内藤恒方「植物が、すごく面白くなってきた」
後編
ランドスケープは近年、「環境」や「サスティナビリティ」と結びつくようになった。内藤恒方氏も歳を重ねるごとに、木々や草花、自然がもつ力に興味を抱くようになったという。80歳を目前にして精力的に活動する秘訣を聞いた。
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内藤恒方「木を植えるだけじゃ、ないんです」
前編
内藤恒方氏は日本のランドスケープ・アーキテクトとして先駆的な活動を展開してきた。アメリカでの経験をもとに、建築と庭園とが交感するランドスケープを国内外で数多く手がけ続けている。内藤氏の考えるランドスケープ・アーキテクチュアの定義とその真髄を聞いた。
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保坂陽一郎「コミュニティがあって、建築がある」
後編
保坂陽一郎氏は、建築家として海外の都市をサーベイし、日本の都市との比較のなかから、「住む場所の根源」について考察を重ねてきた。そして、そのなかで得た知見を、集合住宅の設計や地域づくりなど、具体的なプロジェクトと結びつけ、日本の都市を、「本来あるべき姿に戻す」ことを目指す。保坂氏が、旅のなかから見いだ…
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保坂陽一郎「都市は〈建築群〉でできている」
前編
保坂陽一郎氏は、プロフェッサー・アーキテクトとして長らく大学で教鞭をとりながら、自身の設計事務所での建築設計、都市と建築の関係性に対する論考の著述など、精力的に活動してきた。そんな保坂氏は、70歳で武蔵野美術大学を退職して以降、建築家として都市に何が残せたか、残せなかったのか、自身の「責任」を考える…
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前野まさる「ご近所付き合いは大事です」
後編
前野まさる氏は、建築物や町並みの保存には「外の目」と「内の目」が必要だと語る。外部の人間として、「外の目」でモノを評価すると同時に、住民による「内の目」からの愛着や誇りを学び、二つの視点から、本質的な存在価値を探る。またそうした視点をもつためには、自らも、地域を構成する住民であることを自覚し行動する…
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前野まさる「市民運動は、美しい心で腹黒く(笑)」
中編
前野まさる氏は、2012年10月に保存・復原工事が完了した東京駅の赤レンガ駅舎の保存活動にも尽力してきた。1980年代、東京駅舎は老朽化を理由として改修されることも検討されていたが、多くの市民がこれに反対。前野氏はその陣頭指揮をとった。しかしその手法は、市民が抱く東京駅への愛着、誇りを表現することで…
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前野まさる「建築の保存は文脈で考える」
前編
前野まさる氏は、東京藝術大学の「赤レンガ館1号館」の保存活動を皮切りに、以後、数多くの歴史的建造物や町並みの保存運動に携わってきた。そのなかで、前野氏がもっとも重視するのは、保存する対象を建築単体で捉えるのではなく、建物と土地の関わり、歴史のなかでの位置づけ、すなわち、「文脈」としてその価値を捉える…
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池田武邦「自然は、断然強いんです」
後編
池田武邦氏は、日本設計の経営を退いて後、長崎県で「ハウステンボス」プロジェクトに携わる。そこでは、アミューズメントパークとしての成功以上に、大村湾を含む、一帯の自然環境の回復を重視したという。それは、戦後日本の高度経済成長を支え、かつ、そのなかで急速に近代化していく日本のあり様に疑問も感じていた池田…
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池田武邦「超高層は、都市に緑を確保する手段」
前編
池田武邦氏は、戦後の高度成長期、日本の超高層建築を牽引してきた一人。しかし建築家を志したのは、決して早くはない。海軍少尉・中尉として太平洋戦争の前線に赴き、奇跡の生還を果たした後のことである。だが「日本」を背負い戦った経験は、世界を視野に建築界の第一線に立つことを目指す「日本設計」の創設につながる。…
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槇文彦「建築とは〈人間〉を考えること」
後編
槇文彦氏は、「ヒューマニスト」と称されることが多い。代表作である「ヒルサイドテラス」は、ヒューマン・スケールな建築群が緑に包まれて、確かに、人が心地よく歩き、佇むテンポを演出する。しかし、槇氏が「ヒューマニスト」であるのは、建築の形態やスケールはどうであれ、常に、人間が自由でいられる空間を求め続ける…
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槇文彦「建築を評価するのは〈時〉です」
中編
槇文彦氏は、建築の本質的な「価値」とは何かを繰り返し問いながら、自らの作品とも向き合ってきた。その一つの答えに、建築の「社会化」がある。新たに誕生した建築は、一定の時を経て、周囲の環境、利用する人々との関係を結びながら、社会化する。そこで初めて、建築がもつ本質的な「価値」を見きわめることができるので…
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槇文彦「だんだん〈自然体〉になっています」
前編
槇文彦氏は、1960年に日米でほとんど同時に発表した二つの処女作により、建築家としてのキャリアをスタート。以来、今日まで、すでに半世紀を経過しようというなかで常に第一線にあり、「モダニズム」を牽引してきた。まずは処女作とのかかわりから半生を振り返り、代表作とされる建築への思いを聞く。(聞き手は、真壁…
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池原義郎「大地や環境、社会から目が離せない」
後編
池原義郎氏は、1967年の住宅建築を皮切りに、自身の建築を追求し始める。今井兼次氏の下で培った詩情を礎にしながらも、風土、環境や地域、社会とのつながりに目を向け、公共性の高い建築物を数多く手がけてきた。しかも、60歳代、70歳代と年齢を重ねるにつれ、その建築はより大きく、透明感を増していく。その背景…
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池原義郎「師・今井兼次に学んだこと」
前編
池原義郎氏は、モダンな感性をもちながら、いわゆるモダニズムとは一線を画す建築家と評される。その源泉には、建築に詩性、文学性を追求した師匠・今井兼次氏への共感と反発があるのではないか。親子ほどに歳の離れた師弟の、意外にもウィットに富んだ関係を振り返りながら、池原氏のルーツを探る。(聞き手は、真壁智治=…