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モダニズムは老いを許さない

 そもそもモダニズムは建築家の加齢化や老化に寛容であったのだろうか?

 否(ノン)と言わざるを得ない。

 なぜならモダニズムは進歩史観をベースに、たえず強く、大きく、速く、美しく、まさに壮年型の理念、発想、体力が前提となってきたものであったからだ。つまりは壮年型身体性が職能としての建築家には前提として要求され、建築家は絶えず壮年型身体性を演じてきたともいえよう。モダニズムの前にあっては、決して建築家の個人的な加齢化や老いには、アドバンテージは与えられなかった。

 そのような認識を持った上で、私は70歳以上の建築家の老年期・晩年期の作品や生き方に強い関心を抱くようになった。

 どの建築家にも加齢化や老いは避け難く訪れる。建築家たちはそれらをどのように自覚し、どのように向き合うのか。建築家が長生きすれば、どのようなものづくりが見えてくるのか?

 少なくとも老年期でも戦力としての役割の余地が期待されもするし、そこに自身の役割を見出さないと、社会的に「建築家」の座は降りるしかない。建築家としての主体性の喪失は自身のアイデンティティに決定的な打撃を与えることになりかねず、特に加齢が進めば進むほど、そのダメージは大きくもなろう。こうした微妙さを抱えながらも建築家は老いに向き合ってものづくりを見つめていかざるを得ない。

 70歳からの「建築家の年輪」とは少なくとも、「建築」という想念に対して、どこかで自身の加齢化という避けがたい現実の身体性との葛藤を内包しているものであり、そこに歓喜や悦楽や陶酔のほかに、悲しさや寂しさや絶望感までもが渦巻いてくる。この建築家の老いという問題は特にこれまでの近代建築以降、根の深い人間存在の局面を抱えていたように思う。つまり、先に触れたように建築家の加齢化とは一切無縁に、モダニズムが絶えず備わるべき資質として建築家に求めてきた「身体性」があったのである。まさに、モダニストとしての理念化した身体性がそれであった。

 この理念化した身体性とは、普遍性を追求する身体のことであり、“永遠”と同義のものといえよう。“永遠”を担う建築家の身体は、不老不死性を意味してきた。従って、建築家は絶えず理念化した身体のふるまいを通して“永遠”という身体的幻想を備えてきたように思う。

 前述の村野が示した50歳からの建築家のあり方の規範も、まずはモダニズムの理念で武装した著しく覚醒する身体性が前提にあることは自明であろう。その上で、さらに技量を修得していく経験則に基づく建築家のもう一つの身体性、つまりは、時間的経緯を基軸にした無意識化する経験による身体性の必要を、村野は指摘したのであった。いわゆる、年期の世界のことと言っていい。

 それは寸法や納めや仕上げや取り合いや見え掛りなどについての厳格な見識が裏打ちされた、まさに、時間が折り重ならないと生じないもう一つの身体性となるものなのである。こうした二つの身体性が身についてこそ建築家は底光りする建築を生むことが出来るというわけなのだ。建築家の身体性に骨格を与えてきた永遠と経験の世界を体現する身体こそが社会に対する建築家の存在そのものではなかったか。

ケンプラッツ読者の年齢構成。建築・住宅分野の仕事に従事する読者の平均年齢は46.8歳。一級建築士の取得者に限ってみれば平均年齢は50.9歳まで上がる。今後は65歳以上の“高齢読者”が占める割合が間違いなく増えてくる
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