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加齢を重ねた二人の巨匠のパフォーマンス

 建築家にとっては、理念化した身体性と経験則による身体性という、二つの身体性の充実がもっとも望まれるのであろう。しかし、そこに自身の加齢化が加わって二つの身体性に不具合や支障が生じてきたら、その時はあっさりと白旗を出して、建築の土俵から退くしかないのであろうか。特にこの判断が入用になってくるのは建築家の老年期、あるいは晩年期に至ってであろう。

 私はこうした加齢化を伴う局面での、二人の建築家の対照的なパフォーマンスを見聞きした。一人は丹下健三である。

 丹下が79歳の時の作品「国連大学ビル」(1992年)の竣工検査であろうか、車から公開空地の建物の庭に降り立った折に私は偶然出くわした。

 夏の暑い昼下がりだった。白いサマースーツを着込んだ小柄な丹下が私の目の前に現れた。一瞬目を疑った。顔面を真っ白く塗り、真っ赤な口紅が白昼夢の様に映ったのである。

 まるで、顔に白いドーランを塗った大野一雄や土方巽、麿赤児を見るようだった。

 丹下のその相貌はまさに老いを怖れぬ建築家のふるまい、と私には直感され、感動した。

 自分の身体の老いを隠蔽し、壮年的なふるまいを演じる強い意志をそこに感じたのだ。

 あくまでもモダニストは外に対して老いを示してはならない、という強い信念のようなものを感じないわけにはいかなかった。

 話はかわるが、50年代、60年代のデザイナーや建築家は一様にとてもおしゃれだったし、カッコ良かった。それを演じてもいたのだろう。皆が壮年型ふるまいを楽しんでいたように思う。

 もう一人が村野藤吾だ。村野が72歳の時に完成した「日生劇場」(1963年)の螺旋階段の手摺りでのパフォーマンスである。

 仕上げチェックの折に、並みいるゼネコンのスタッフを前にして、村野は上着を脱ぎ、ワイシャツを腕まくりして、おもむろに階段を上る。

 上がりきると、ひじから手首の部分を覆いかぶさるように、階段の手摺りに全力で体重をかけて、ユルユルと腕をこすりつけながら階段を下る。

 下りきると、涼しげに「ホラ、腕が切れましたネ」と言ったと聞いた。

 まさにこれは建築家の老いを逆手に取りながら示した凄みのあるふるまいである。階段の手摺りの金物工事の仕上げに対して「腕が切れるような仕上げ方はダメだ」と身体を張った意思表示となった。

 この二人の建築家に見られたふるまいは、一体何を示すものであろうか。どちらも70歳以上に老いないと示せないパフォーマンスであろう。

 丹下の場合は、建築家の身体の老いをストレートに問題にしたものだ。モダニズムが持ち合わせなければならない、理念化する身体は壮年型を理想とし、モダニズムに殉教する覚悟を体現したようなふるまいは、まさに他を制圧するパフォーマンスと言ってよいかと思う。ここには、加齢化や老化に対する嫌老性がうかがえ、アンチエイジングが希求されている。

 一方、村野の場合は、技能者、あるいは匠としての身体性を言葉少なに強烈に周囲に示す。しかも、老いていることが一層、効果的な方法でだ。これも他を圧倒的に制している。村野には経験化した身体性が全面化しているのだろう。この経験化した身体性は、老いを隠さない、嫌わない、むしろ、直截にそれを受け入れながら、凄みのあるパフォーマンスを演じることに矛盾はない。村野には老境の剣士のような姿が漂う。ここに老いを受容していく、いわば「受老性」とでもいうべき精神がうかがえるのではないだろうか。

 建築家という職能の土俵も、実はこうした二つの身体性と関わりながら成り立ってきたものであるが、二人の建築家に見た老いの中でのパフォーマンスは、避け難く進む加齢化の現実を前にしての嫌老性と受老性とをいみじくも示したものだった。しかし、なんとも建築家の老いのステージは存在論的にも大変面白く、興味深いものがあるではないか。建築家はいずれの場合も他との関係なしでは成り立たないからである。

 ところで、こうしたパフォーマンスはどこかで建築家自身の感性とも関わりがあるように思う。自明なことであるが、建築家の感性を築くベースメントとなってきたものも建築家の二つの身体性の領域が大きくある。このように見てくると、建築家が固有に持つ身体性と建築家の感性とは一対のものとして理解することができるだろう。

 つまるところ、建築家の年輪とは、主にこうした二つの身体性の側面、理念化する局面と経験化される局面とが積み重なりながら形成されるもので、その裡に各々の建築家に固有な感性が醸成されてくると考えることが素直なのかもしれない。

 では、建築家に加齢化や老いが加わると、ここにどのような変化が生じてくるのか。まずは体力の衰え、体調の不整、知覚機能の低下、器官の障害、疾患・疾病の発症、脳の退行などの老化による一般的な劣化が当然生じてくるが、私が注目したいのは、老いていく裡での建築家の感性の所在である。

 建築家を建築家たらしめてきた二つの身体性が老いによって身体機能は劣化するものの、二つの身体性と共に育まれてきた建築家の感性はどのような推移を示すのだろうか。建築家の年輪の裡の壮年期・熟年期とは異なる独特な感性の世界が広がっているかもしれない。老いてもなおオーラを発する建築家の存在には、この老いの感性が大いに関わってくるように思われる。

 前述した二人の建築家のパフォーマンスも、各自の感性から生じてきたことだろう。永遠性(理念)と経験性(技術)に裏打ちされた建築家の感性は朽ちてはいかないものなのか。建築家の老いの裡に発現する奔放で、より自由な感性に連載記事では触れてみたいと思う。

75歳以上(後期高齢者)が人口に占める割合の推移
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