高齢社会における建築の行方を伝える役目
建築家の老いにあって、手強い問題もある。長沼行太郎が指摘した「嫌老社会」がそれで、社会そのものが老いを忌み嫌う流れが顕著に見られるというのだ。老いを、自身も、周囲も、社会も嫌がり、目を背ける傾向が進んでいて、そこでは老いを受容していく態度よりも、アンチエイジングへの希求がすこぶる強い。
それに、老いのステージでの経済的な格差や、老いを他世代が排除しようとする傾向など、老いを巡るシリアスな現実も示されている。そうした裡で、老いを迎えていく建築家も老いそのものと向き合うことを疎んだり、避けたりしがちにもなろう。社会の嫌老化のワナに建築家自身も採り込まれていく構図が避け難く潜んでいる。
しかし、建築家にはあえて老いの最中に身を置いて、そこで思索し、感じとらなければならない大きな事情があると思う。それは、これまでの建築史が遭遇しえなかった高齢社会でのあるべき「建築」の行方を自身の老境と重ね合わせて描き出し、伝える役目があるからなのだ。
その点からも建築家は老いの問題を直視することが大切なのではないか。自らの老いの実感を持って、理念化した身体と経験された身体とを携え、老いを受容して見えてくる建築があるはずだし、老いを遊べば直感できる建築もあるはずだ。そこでこそ高齢社会での寄り添える建築のビジョンを見透かすことができるのではあるまいか。
老境にある建築家のメッセージは時代に対して一層、意味を増して来ているように私は思う。
今の建築を牽引しているのは、1940年代・50年代生まれの建築家たちだ。彼らの手に余る、手の届かない、手の回らない、手薄な局面をアシストし、サポートしていくのが、まさに20年代および30年代生まれの建築家たちなのではなかろうか。
こうした世代ごとの役目が共有化されてくると建築界はもっと確かに外へ向けた発信ができる。「建築」と「建築家」の存在を少しでも広く、身近に社会に伝えることが、今の時代の建築の地平には欠かせない。
いずれにしても、老境にある建築家の豊かな感性やイメージや言動や思索や発想の数々に出会うことは、建築家の深い洞察性や感受性、さらには批評性に直接触れることになる。これまであまり明かされなかった建築家の姿を浮き上がらせる貴重な機会にもなる。
私(1943年生)も70歳になる。70歳は老境の入り口。その意味からも、なによりも諸先輩にお会いするのを楽しみにしているのは、私自身なのかもしれない。改めて、建築家の老年・晩年作品の研究の場を構想しており、そのための序章として、今回の連載「建築家の年輪」を位置付けてみたい。
プロジェクトプランナー
