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自分で自分が学ぶことを編集する

――お二人は学生時代を、どのように過ごしましたか。

藤原 私が学生だったときは、まだスタジオ制ではありませんでした。大学に入学した途端に北山さんから、「つまらない講義には出なくていい、自分で学ぶことを編集しなさい」と言われた記憶があります。高校を卒業したばかりの学生には衝撃でした。

 この言葉を真に受けて、教科書を読んでいるだけの講義は欠席、面白い授業は最前列に座って受講する極端な学生でした。空いた時間を使って映画をたくさん見ました。建築は、仮設建築づくりで学んだところがあります。当時、大学祭などで仮設建築をつくる伝統が学生の間で定着していまして。確か、北山さんが仕掛けたんですよね。

藤原氏が学生時代に、友人たちと制作した仮設建築。仲間とセルフビルドした経験は、後に藤原氏が建築家になろうと決意するきっかけとなった( 写真:藤原 徹平)
藤原氏が学生時代に、友人たちと制作した仮設建築。仲間とセルフビルドした経験は、後に藤原氏が建築家になろうと決意するきっかけとなった( 写真:藤原 徹平)

北山 米国のコーネル大学で実施しているのを友人から聞いたのがきっかけです。当初は私がポケットマネーで提供した資材で、学生が仮設建築をつくっていました。

藤原 横浜国大は空き地がいっぱいあった。時には何十人ものチームで仮設のバーなどをつくりました。建築を企画し、設計し、施工する全ての過程を理解できる。お小遣い稼ぎにもなるし、ナンパ目的でやっている友人もいました(笑)。

 大変面白かったのですが、あるとき、バーのような仮設建築づくりに何か意味があるのかという疑問が頭をもたげました。大学祭という社会の中で建築をつくることに興味を持ち始めたんです。大学祭という場に多様性を与えるような場所をつくりたいと。

 きっかけは、何も機能を持たない空中に浮いたテントをつくったことでした。酒や食べ物の売り買いはしませんが、大学祭でにぎわうキャンパスを見下ろす物見台のような場所で、大学祭の空間全体が一挙に立体的なものに変わった。この空間体験から、つくることを楽しむだけでなく、批評性も生まれ始めました。仮設づくりに関わった学年全体が、急激に建築デザインを理解して大人になっていったような気がします。

北山 卒業設計の展覧会を学生たちが自ら企画し、開催するといったイベントも、横浜国大で教壇に立ってから仕掛けました。というのも、私は教育を壊した世代なんです。大学受験は東大紛争があった1969年。横浜国大も私が入学したときは、教育システムがほとんど機能していない状態でした。だから受講する授業を編集する以外なかった。面白そうな講義を探し出して、他大学まで聴きに行くんです。非常に面白い都市の記号論の講義に潜り込んだりしました。

 ロバート・ベンチューリやクリストファー・アレグザンダーの本や、「都市住宅」や「SD」といった雑誌も読みました。1970年代は今から見たら本当にめちゃくちゃな建築家がメディアに載っていて「ポストモダン」という言葉で正当化されてしまう。こうした風潮に疑問を抱いて悩みました。大学院に在籍していた頃は建築をどうつくるべきか分からなくなった。結局、実践するしかないと考えて、学生時代に設計事務所を開き、設計を始めました。建築の道に進むことに迷いはなかったし、建築への信頼は昔も今もずっと変わりません。

藤原 私はひたすら迷っていました(笑)。学生時代は建築家になりたいなんて、これっぽっちも思っていなかった。建築家が設計した建物は結局、お金持ちの人が使うもの。建築家は社会の理想を語るけれども、設計した建物が一般的なものにならないことに矛盾を感じ、ずっと葛藤していました。普通の人の役に立てないかと。

 場所を生み出す活動が自分にとって楽しいし、重要だと気付いたのは、セルフビルドで建築をつくってからです。この活動を実践し続けたいと思ったんです。

 迷ってばかりいた大学院時代に、北山さんから60年代のフランスの社会思想運動である「シチュアシオニスト・インターナショナル」の本を紹介されて、その全集を読破しました。民衆が自ら活動し、自らの手で社会や都市を変革していく活動と戦略の記録でした。「ああ、これだ」と心の底から思いました。小さな活動から社会の根底に影響を与える強い理念がありました。

 従来の建築や都市の概念とは異なって、人の活動の豊かさから都市や社会を考えていく。このことを私は、シチュアシオニストからビジョンとして与えられました。自分の日常生活の思いを、活動として表現し続けることの延長線上に都市がある。そうすると自分が建築から学んできた理論や批評性と、友人たちと実践してきた仮設建築という場をつくる活動を融合できる。今振り返れば北山さんに授けてもらったいくつかのルートが、また北山さんによって統合されたのかもしれません。それからは本当に真剣に建築に向き合いました。