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 2020年の東京オリンピック・パラリンピックが決まり、準備が着々と進められている。既存施設の活用もするが、東京で一極集中して競技が行われるため、新国立競技場の建て替えや有明・お台場など海浜地区に新設の競技場を整備するなど、ほとんどの投資が東京に集中する。

 また、競技場周辺のアクセスの改善や観光客の誘致のため、東京国際空港(通称「羽田空港」)の機能強化や羽田空港直通の鉄道の建設計画など、東京を取り巻く改造計画が次々に発表されている。今回は、その中でも世界のハブ港を目指す「羽田空港」にスポットを当てる。

GHQ接収時代の羽田空港

1931年東京飛行場開港の時代(資料:国土交通省)
1931年東京飛行場開港の時代(資料:国土交通省)

 ライト兄弟が有人動力飛行を成功させたのが1903年。飛行機の歴史は20世紀になって急速に発達し、その歴史はまだ110余年と浅い。ライト兄弟の最初のフライトが120フィート程度(約36m)だったことを考えると、その後の飛行機の発達は目を見張るものがある。約10年後の第一次世界大戦(1914-18年)には、ドイツ帝国陸軍航空隊にアルバトロスD.III複葉機が登場し、戦争に使われることが当たり前になってくる。

1959年A滑走路を2550mに延長(資料:国土交通省)
1959年A滑走路を2550mに延長(資料:国土交通省)

 ライト兄弟の飛行から24年目の1927年にはリンドバーグが単独無着陸で大西洋を横断し、第二次世界大戦になると、アメリカではグラマン社の戦闘機やロッキード社の輸送機など、次々に戦争目的の飛行機が開発された。日本でもゼロ戦や隼などの戦闘機を造って対抗している。

 飛行機には飛行場が欠かせない。羽田空港は1931年8月に当時の逓信省航空局が東京府江原郡羽田町の埋立地に53haの民間航空機専用の「東京飛行場」を開設したのが始まりだ。当初の滑走路は延長300m幅15mの1本で、格納庫と待合室などが併設された。当時は、手旗信号による誘導で、人の目を通しての離着陸だった。

1964年東京オリンピック開催時の羽田空港。C滑走路完成 (資料:国土交通省)
1964年東京オリンピック開催時の羽田空港。C滑走路完成 (資料:国土交通省)

 その後、新聞社の自社用飛行機を中心に機数も増え、格納庫を作るなど少しずつ施設が増えていった。32年に満州国が誕生し、アジアとの行き来が頻繁となり、39年には飛行場を約72haに拡張し、延長800m幅80mの滑走路を2本整備している。日本の中心的な飛行場として、第2次世界大戦時にも定期便が就航していたが、しだいに海軍航空隊の訓練用に利用されるようになり、空港周辺はアメリカ軍による爆撃が激しくなった。

1970年B滑走路延長工事(資料:国土交通省)
1970年B滑走路延長工事(資料:国土交通省)

 終戦後すぐに、連合国総司令部(GHQ)は東京飛行場を接収するが、その時に「Haneda Army Air Base」と名称が変わった。GHQは飛行場拡張のため地域住民に立ち退きを迫り、48時間以内に空港島から立ち退くように命令し、約1200世帯、3000人余が対岸などに移り住むことになる。その拡張工事により、46年6月には約257ha、2000m級と1600m級の2本の滑走路が整備された。管制塔、事務所などもこの時に整備されている。その後、パンアメリカンなどの民間航空機も拠点として利用するようになる。

 51年のサンフランシスコ講和条約締結により、接収が解除され、52年7月空港施設の一部が返還され、「東京国際空港」が誕生、58年7月に全面返還された。

 その後、航空機のジェット化が急速に進んできたため、1964年から71年にかけて3本の滑走路を整備し、現在の羽田空港の原型となっている。