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実は古い建物が保証している個人の生きた時間

 建築は個々の人が生きてきた、記憶の器である。それは建築が、人間にとって果たす役割の最も本質的なものであると思います。それまでは社会にとって、歴史にとって、文明にとってという視点で、歴史的なものは論じられてきた。私たち世代では鈴木博之先生(註11)が非常に熱心に、素晴らしい保存論をやってくれています。けれども、個々の人にとって、古いものはどういう意味があるのかは論じられてこなかった。佐賀の議事堂棟の経験から、僕はそこを考え始めました。そこから、建築は個人の記憶の器である、と思うに至った。個人にとっては、自分の人生が時間的に連続しているという証拠なんですよ。

 一番いい例は、昔の小学校の校舎。同じ土地にずっと住んでいるとそうでもないかもしれないけど、たまに帰って昔と同じ校舎がそこにあるとえらく懐かしい。どんなにボロでも。むしろボロであるがゆえに。あれは何だろうと思うと、結局、小学校の校舎がずっといまもあって、それを思い出すとき、その小学校が建っていたときから自分は連続しているんだと感じる。今日まで生きた証拠。個人の時間的なアイデンティティは、実は古い建物が保証している。

 初めてその問題を理論的に教えてくれたのは、吉武泰水先生(2011/11/16公開の藤森照信∞縦横無尽「震災が刺激する建築家の想像力はありやなしや」を参照)です。吉武先生は見た夢を何十年も記録していました。いろんな大学の学長をやっていたから、各地に赴任する。新しい宿舎に入って、その日に見る夢がいつも決まっているんだそうです。新しい宿舎の部屋が思い浮かんで、戸を出てエレベーターにのって降りて行くと、そこが必ず自分が育った家の玄関だったり居間だったりする。吉武先生のお父さんは、吉武東里という国会議事堂を設計した方で、その吉武東里がつくった家がでてくる。それで彼は、どうしてこんなことが起こるんだろうと思うわけです。

 吉武先生の結論は、人間は自分が連続していることを確認したい、要するに、人間の記憶はいつも自分が子供の時に見たものに戻るんじゃないかという説をとなえられた。僕はああそうだ、と思った。それが人間にとっての時間の連続性で、自分の家の場合はわかりやすいけど、それだけではなくて毎日見ていた建物や、記憶に残った建物がそういう働きをする。それこそが、人間個人にとっての建築の最も重要な意味であると。そうすると保存論はまた違った問題をはらむんですけど、だとしても、建築はそういう働きをしている。目立つ建物ほど、働きは強い。みんな見ているから。そういう意味で東京駅は、見てない人もいるけど、多くの人が見てきた建物です。かろうじて残ったことは、よかったと思います。

註釈解説

註1 堀君
堀勇良(ほりたけよし)氏のこと。1949年生まれ。73年京都大学工学部建築学科卒業後、東京大学大学院生産技術研究所で村松貞次郎氏に師事。研究室で出会った二学年上の藤森氏と近代建築の調査を開始、「建築探偵団」を結成して全国的な調査を行った。文化庁文化財務参事官を終え、今は日本建築学事典を準備中。

註2 丸ビルとか郵政ビル
丸の内ビルヂング、通称「丸ビル」は大正12(1923)年竣工。三菱地所が東京駅の向かいに建てた、地下1階地上9階建てのオフィスビル。竣工当時は東洋一とうたわれた。低層階にショッピングモールを入れるなど、現在の複合型ビルの先駆けとなった。老朽化などを理由に平成11(1999)年に取り壊し、平成14(2002)年に新しい丸ビル(丸の内ビルディング)が竣工している。
「郵船ビルディング」は日本郵船会社の社屋として、曽禰中條建築事務所の設計で、丸ビルと同じく大正12(1923)年に竣工。場所は、行幸通りに面して丸ビルの西隣り。戦後、GHQに接収され極東空軍慰官宿舎として使われていた時期もある(昭和31年に解除)。昭和51(1976)年に建て替えのため取り壊された。

註3 明治生命館
昭和9(1934)年竣工。岡田信一郎の設計で(構造設計は内藤多仲)、コリント式の柱が並ぶ地上5階建てのビル。平成9(1997)年に昭和の建築としては初めて国の重要文化財に指定された。現在も、明治安田生命保険の本社として現役。改修工事に伴い、隣に建てた30階建ての明治安田生命ビルと一体で使われている。

註4 第一生命館
昭和13(1938)年竣工。渡辺仁、松本与作の共同設計で、日比谷のお堀に面して建設された。戦後、GHQ庁舎として接収され、現在もマッカーサー総司令官室が保存されている。平成7(1995)年に隣接する農林中央金庫有楽町ビルと一体化させたうえで、中間に高層階部分を増築する改装を行い、「DNタワー21」と名称も変更。東京都選定歴史的建造物。

註5 村松貞二郎先生
1924-97。静岡県生まれ。藤森氏の師匠。東京大学第二工学部建築学科卒業。73年「大工道具の歴史」(岩波新書)で毎日出版文化賞。83年に日本近代建築の評価に基づく都市計画の業績により日本建築学会賞受賞。著書に「日本建築家山脈」(鹿島出版会)「日本近代建築技術史」(彰国社)「道具と手仕事」(岩波書店)ほか多数。

註6 堀口捨己
1895-1984。岐阜県生まれ。東京帝国大学建築学科卒業、大学院で近代建築史を専攻。20年2月に東大の同期生たちと「分離派建築会」を結成、建築の芸術性を主張した。代表作に「小出邸」(現在、江戸東京たてもの園に移築)「紫烟荘」「八勝館」「水戸地方気象台」「明治大学工学部校舎」ほか。84年に亡くなるも公にせず、95年の生誕100周年記念行事の際に公表された。

註7 メタボリズム
1959年に当時の若手建築家や都市計画家たちが興した建築運動。メンバーは黒川紀章、菊竹清訓、槇文彦、大高正人、栄久庵憲司、粟津潔、川添登など。高度経済成長に伴う社会の変化や人口の増加などにあわせて、有機的に成長する都市や建築を提案した。

註8 関野貞
1868-1935。高田藩(現在の新潟県上越市)出身。東京帝国大学工部大学造家学科卒業。辰野金吾の指揮下で日本銀行の工事に参加。1896年伊東忠太のすすめで内務省技師となり、奈良県技師として奈良の古建築を調査、89年に平城宮址を発見した。朝鮮半島や中国の古建築の調査や保護にもつとめた。

註9 太田博太郎先生
1912-2007。東京帝国大学工学部建築学科で建築史を専攻。日本建築史に多大な影響を与えた研究者のひとり。中世の寺院建築や民家の研究に尽力。著書に「日本建築史序説」(彰国社)「日本住宅史」(彰国社)「奈良の寺々」(岩波書店)ほか。東京大学教授、九州芸術工科大学学長、武蔵学園長、文化財建造物保存技術協会理事長などを歴任。

註10 長野宇平治
1867-1937年。新潟県上越市生まれ。1893年東京帝国大学工部大学造家学科卒業後、奈良県嘱託となり奈良県庁舎の設計で評価を得る。97年日本銀行技師となる。辰野金吾の指導のもと、大阪、京都、小樽などの支店の設計監理を担当。台湾総督府庁舎設計競技に当選、独立。1927年に再び日銀技師長となる。

註11 鈴木博之先生
1945-。東京生まれ。68年東京大学工学部建築学科卒業。ロンドン大学コートゥールド美術史学研究所留学を経て、東京大学教授。2009年から青山学院大学総合文化政策学部教授。明治村館長もつとめる。著書に「建築の世紀末」(晶文社)「ヴィクトリアン・ゴシックの崩壊(中央公論美術出版)「東京の『地霊』」(文藝春秋)「日本の近代10 都市へ」(中央公論新社)ほか多数。

藤森照信(ふじもりてるのぶ)
藤森照信(ふじもりてるのぶ) 1946年、長野県茅野市生まれ。1971年、東北大学工学部建築学科卒業。1978年、東京大学大学院博士課程満期修了。 1979年、博士論文「明治期における都市計画の歴史的研究」提出。 1982-2010年、東京大学生産技術研究所専任講師、助教授、教授。2010年、工学院大学教授、東京大学名誉教授。 「日本近代の都市・建築史の研究」で1998年日本建築学会賞論文賞。 「熊本県立農業大学校学生寮」で2001年日本建築学会賞作品賞を受賞。