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都市景観の作法

 発表された新国立競技場案のパースが一葉、日本のメディアに公表された時、私の第一印象はその美醜、好悪を超えてスケールの巨大さであった。私自身がすぐ隣接する所で体育館を設計したその経験から直感的に抱いた巨大さであったが(図3)、このパースはよくこの2つの体育施設のスケールの差を示している。

図3:新国立競技場入選案のボリュームと周辺環境
図3:新国立競技場入選案のボリュームと周辺環境

 次に私がこの案に対して持った関心は、その接地性、言うなれば与えられた場所の中で、目線のレベルでその対象建築が様々な距離、角度からどう見えてくるかであった。もしもこの案の正確な立面、平面を与えられれば、コンピューターグラフィックによって即座に数十箇所からその見え方を検証することができたのだが、残念ながら私はそのインフォメーションを持っていないので、当分こうしたイメージをもとに検証を進めていかなければならない。そして、おそらく新国立競技場案の場合、我々の時と異なって、現存の施設の規模を遥かに超える「超超法規」が適用されたのではないかと思われる。

 私がハーヴァード大学に学んだ時、デザイン学部学部長は当時、都市デザインの権威ホセ・ルイ・セルトであった。次の彼の言葉が一生忘れられない。彼は、「都市で道を歩く人間にとって最も大事なのは、建物群の高さ15m位までの部分と人間のアソシエーションである」と言った。つまり人間と建物の視覚的関係には様々な距離が介在する。しかし建物に近づくに従って彼の触覚も含めた五感的体験はこの原則に支配されていく。それが人々の建築に対する好意を持つかの判断のベースにもなる。道行く人々にも様々な生態がある。そこを訪れるもの、散歩するもの、ジョギングをするもの……。今回のこの提案では東京体育館と現国立競技場の間の外苑西通りに沿った南北に延びる都市公園はほとんど消失し、2つの体育施設を結ぶ道路の上部には広場のスケールに近いプラットフォームが提案されている。

 計画の段階で建築の接地性、周縁の環境との関係を単に俯瞰するだけでなく、先に述べた目線からもチェックし、理解するに最も有効な手段は対象プロジェクトの縮尺模型である。我々は普通それをスタディモデルという。1990年に現東京国際フォーラムの国際コンペに、私は丹下健三、I. M. Pei氏等と共に審査の一員として参加した。Pei氏以外の二人の海外からの審査員に対しても周縁の状況をよりよく理解してもらうために、有楽町、東京駅、皇居のお堀端、JRを越えた銀座方面までを含めた敷地模型を用意し、参加者の提出したモデルを一つずつ落とし込み、様々な角度から数百の応募案を検討していった。もちろん目線からのチェックも当然なされた。その時、モデルが図面よりも何よりも一つひとつの案を絞り込んでいくのに効果的であったことを今でも鮮明に覚えている。主催者東京都の当時の知事は鈴木俊一氏であった。

 今回新国立競技場のコンペに参加する設計者には、模型提出は求められず、4枚のパースのうち外観パースは鳥瞰図一葉だけが求められた。一方このコンペにも二人の外国人建築家が審査員に含まれていた。

図4:北京オリンピック競技場「鳥の巣」
図4:北京オリンピック競技場「鳥の巣」

 また、今回の新国立競技場のような巨大な施設には充分なゆとりのある敷地が与えられていることが望ましい。何故か。それはイベント終了時における多数の人間をいかにさばくかという機能上のゆとりへの要請だけでなく、こうした施設が一般市民に必ずしも愛されるものでない、あるいは好ましくない時に生じる問題が常に存在するからである。例えば図4は、北京の「鳥の巣」の写真である。そこには充分な前広場がとられている。しかしエルサレムの「嘆きの壁」のように誰もが近づきたいと思うことは少ないのだ。私も「鳥の巣」の前に立ってみても、この写真を撮った距離くらいから遠望すれば充分であり、現在多くの市民も一瞥して立ち去るものが多いのではないか。それは都市の記念碑的なものについても言えることなのだ。日本のように何世紀も島国であったところと異なり、絶えず他民族の侵入のあった大陸では記念碑自体の存在は複雑な政治的、宗教的理由によって必ずしも万人に愛されるものではない。その時、充分なゆとりを建物周縁にもつことは、様々な感情のバッファー・ゾーンの役目も果たしているのだ。

 現東京体育館、原宿の国立代々木競技場と新国立競技場の比較表が図5である。ゆとりとは物理的な機能だけでなく、人間の五感と建築との関係のあり方を示す重要な指標なのである。そして既に述べたように巨大構築物は必ずしもそこに住むもの、通過するものにとって親しまれ、愛されるものであるとは言えないのだ。

図5:競技場比較表
図5:競技場比較表

 青山通りの外苑前と青山一丁目の間を移動する時、通りの北側に展開する2列の並木とその焦点に位置する聖徳記念絵画館(以下絵画館と略称する)が作り出すその姿に強い印象を受けないものはないであろう(図6)。特に周縁が闇に包まれ、絵画館の灯りだけが夜空に浮かび上がるその光景は、東京の数少ない都市景観の一つに数えあげてよい。そして図1は昭和6年(1931年)頃のこの地域の地図である。後に述べるように、外苑は当時の市民に広く開放されたスポーツ施設をもった地域であるが、この地図をみる限り、主役は絵画館とイチョウ並木であり、スポーツ施設は脇役に過ぎないことがはっきりとわかる。そしてこの光景を述べる次の短い一文に触れる機会があった。「絵画館前は整然と4列に植栽されたイチョウ並木、噴水、前庭である芝生広場が続き、そして絵画館を焦点とする空間構成。このような西洋的な空間構成は、日本では稀である。それは近代の都市計画における歴史的遺産として貴重である(*1)」。これをつくった人々の気概と誇りに似た気持ちが我々に伝わってくる。それでは誰がどのようにして内苑、外苑をつくったのか。このことは最近出版された今泉宣子の『明治神宮─「伝統」を創った大プロジェクト』(新潮社(新潮選書)、2013年)に詳述されている。以下、私のこの項に関する記述についても彼女の著書に負うところが大きい。

図6:絵画館とイチョウ並木
図6:絵画館とイチョウ並木

 1912年、明治天皇崩御の翌年、民間有志─渋沢栄一、時の東京市長阪谷芳郎等の請願を受け、天皇奉祀の神社、明治神宮建設の端緒が開かれる。現在明治神宮があるところを内苑と称する。そして明治神宮外苑(以下外苑という)が提案され、内苑に対して外苑は公園、特にその後各界からの要請に応じて、市民に広く開放されたスポーツを中心とした公園として整備されていく。しかし重要なことは、当初より内苑、外苑、そして表参道、裏参道が一体として計画されてきたことにある。このことは図1の地図がよく示している。

 先に東京体育館の設計の項で触れたように、この地域が東京の風致地区第一号に指定されたのは、その背後に明治神宮との関連性を重視した姿勢の表れであり、今日この地域が単なるスポーツ公園と考えられたのではなかった証左でもある。内苑の明治神宮はその本殿が太平洋戦争で焼失したが、1958年には復元、一方外苑は絵画館と周縁の公園造営が大正15年(1926年)に完成した。

 この代々木の鎮守の森、外苑の公園、更には明治神宮神殿、宝物殿、そして聖徳記念絵画館の建設にあたっては、当時の日本の建築、造林、農学の碩学が情熱をもってその造営に参加したことが、先に述べた今泉の書で様々なエピソードを交えながら語られている。特に伊東忠太、佐野利器、関野貞等は我々建築家にとっても馴染み深い名前である。

 しかしこの項の冒頭に触れた青山通りから見た絵画館の美しさも、次第に絵画館に近づくにつれて失望に変わっていく。何故なのか。広い芝生の西側には仮設かと見まがう粗末な建物が幾棟か立ち並び、絵画館の前面道路は屋外駐車場になっている。そして新国立競技場案との関係は、図7に示されている。

図7:新国立競技場入選案と絵画館(図版提供:JAPAN SPORT COUNCIL)
図7:新国立競技場入選案と絵画館(図版提供:JAPAN SPORT COUNCIL)

注*1 アイランズ編『東京の戦前 昔恋しい散歩地図』(2004年、草思社、86ページ)