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アテネの広場から

 半世紀以上も前、正確には54年前、私はアテネのパナティナイコ(Panathiaiko)競技場前の広場に佇んでいた。その前年受けたグラハム財団基金による長い西方への旅のひと時であった。この広場はアテネの中心地区から後方に見える小高い丘に向かう道路のTセクションに位置している(図8)。それは予期しない偶然の出会いであっただけに、息をのむ美しさであった。紺青の空を背景に白い大理石の観客席と前面広場の輪郭を緑が柔らかく包んでいた。おそらく世界の都市造形の傑作の一つに挙げてよいだろう。広場に佇むもう一人は私の同行者で、私はこの1枚の絵を通して素晴らしいパブリックスペースとは一人しか人がいない時にも美しいものだという説明にしばしば使ってきた。しかし、今回の新国立競技場案が発表されて以来、私の記憶の室(むろ)からこの1枚の絵は別の意味をもって引き出された。

図8:パナティナイコ競技場
図8:パナティナイコ競技場

 パナティナイコの歴史は長い。紀元前6世紀に当初より運動競技施設としてつくられたこの施設は、様々な手が何回も加えられ、1870年そして1896年のオリンピックにも使用される。そして嬉しかったことは、2004年のアテネオリンピックの際、この施設をテレビのスクリーン上で偶然とらえた時であった。
 それは半世紀前私が見た広場の光景と全く違わないものだった。もちろんメイン会場ではなく、確か射撃の試合か何かが行われていて、前面の広場には少数の人々が忙しそうに動き回っていた。

 しかし、今回ここで取り上げたかったことは紀元前2世紀に改修されたこの競技場が既に5万人の収容人口をもつ施設であったという事実である。施設のエンジニアリングのことを言っているのではない。一般に昔の統治者であれば5万人もの人が集まるところをつくるのは宗教的な機能を持たない限り躊躇(ちゅうちょ)したに違いない。我々はアラブの春における広場の役割を最近目撃してきた。紀元前2世紀に5万人の観客席を持った競技場をつくったということは、施政者の市民に対する信頼が存在し、換言すれば市民社会が既にそこに成熟していたことを物語っている。市民社会とは今日どういうものなのだろうか。ここで私は二つの別の出会いを紹介したい。

 私がノバルティス製薬会社の仕事をここ数年スイスのバーゼルでやってきた時、ちょっと彼の地で話題になったことが昨年あった。それは市の中心部の一隅に想定されたコンペの最優秀案に選ばれたザハ・ハディドの設計になるコンサートホールが市民のリファレンダムによって過半数の反対票の結果、否決されたという出来事であった。案は東京のそれと比較すると極めて小規模で、建物が敷地からはみ出ることもない抑制のきいたものであった。しかしスイスでは重要な公共施設の建設にあたって市民のリファレンダムにかけられることが多い。それは税金を支払う市民にも建設の当否について意見を述べる権利があるという主張に基づいている。この時の否決は必ずしも彼女のデザインスタイルに対してだけではなかったと思う。何故ならば、その数年前チューリッヒの湖畔に想定されていたスペインのモダニスト建築家、ラファエル・モネオの文化施設の案も、リファレンダムの結果建てられなくなったからである。

 東京のザハの案は最優秀案に選ばれただけでなく、見るものを元気づけるという賛辞までもらっている。おそらく彼女は苦笑していたに違いない。本当に苦笑したか否かは分からないが、もしも私が彼女の立場であったら苦笑したということである。

図9:フローニンゲンの“浮かぶ劇場”
図9:フローニンゲンの“浮かぶ劇場”

 市民社会について、もう一つの出来事を想い出す。1996年、今からほぼ20年前、私はオランダ北部にある、かつてハンザ同盟にも参加していた運河都市フローニンゲンの依頼で小さな浮かぶ劇場を設計した(図9)。テフロンのスパイラル状の屋根をもったこの小さな船は、夏の気候の良い時、市民達のための音楽祭、詩の朗読、岸辺に停留してパフォーマンスの舞台等に使われ、多くの市民から親しまれてきた。しかし夏の音楽祭に間に合わせるために早急につくられたこのテフロンの屋根が不完全で、数年後、市の保有する“浮かぶ劇場”はお蔵入りせざるを得なくなったことを風の便りに聞いていた。それからさらに数年経った2000年の中頃か、私は全く見知らぬフローニンゲンの一市民から手紙を受け取った。その主旨は次の通りであった。「貴方が設計した“浮かぶ劇場”は市によって処分されようとしている。しかし我々はぜひあの“浮かぶ劇場”が運河で、また様々なイベントに使われることを強く希望している。オランダでは公共の施設は、その設計者の同意がなければ処分することは許されない。ぜひ、市に、建築家として保存の希望があることを伝えてくれないか」という文面であった。私は喜んでその主旨の手紙を市に送った。そして3年前、この船をつくった時から市側でその実現に協力してくれた担当者から1通の手紙が届いた。「喜んでくれ。修復の予算がついた」。この事件と先に述べたスイスのリファレンダムは一つのコインの表と裏なのだ。つまり成熟した市民社会では、公共の資産はそれを建設する時も、あるいは撤去する時も、その許可は市民の同意なくしては得られないということである。当時“浮かぶ劇場”の総予算はせいぜい3千万円程度のものであったに過ぎない。

 パナティナイコの競技場の歴史、バーゼルでのリファレンダム、そしてこのフローニンゲンでの経験は、一見、時間、空間的に全く大きな距離をもった個別の経験であったが、それらが互いに関連した一つの出来事として私には理解し得るようになったのである。

 それでは日本に市民社会は成立したのだろうか。江戸の徳川幕府は300年にわたって、さしたる反乱もなくその主権を維持してきた。これは世界の政治史でも稀にみる例である。その封建社会は当然、divide & rule、つまり分割統治が基本原則であった。

 次に、常に存在した仮想敵でもあった大名群には参勤交代という制度を幕府は敷いた。これは島国である日本において初めて実行可能なシステムであり、地続きが多い大陸の国々では不可能なシステムである。そして多くの庶民を集め得る広場の代わりに、社寺境内も含む名所群が分散して設けられた。そこでは少数の武士と庶民の交流も許される数少ない場所であった。そして名所の外には吉原と歌舞伎があれば充分であり、統治歴史に比類のない空間政治学の賜としての安定した封建制度は19世紀の中頃まで存続した。そして日本は市民社会を経験することなく一足飛びに近代社会に突入する。封建社会の武士が構成した“お上”に代わって、官僚の支配する“お上”が今日まで続いていることは、よく知られている。

 したがって今回の国際コンペの特色は、“お上”の一部の有識者がそのプログラムを作成し、誘導してきたと考えてよいのではないだろうか。そしてコンペのプログラムには、前述したこの地域の濃密な歴史的文脈の説明は全くなく、コンペ参加者に与えられたのはフラットなサイトだけである。したがって私は、最優秀案も含めて海外からの応募作品の敷地に対する姿勢についてあまり批判するつもりはない。ザハ・ハディドにとって今回のコンペは、毎年世界中のどこかで行われている国際コンペの一つ(one of them)にしか過ぎない。彼女の3Dモデリングのオペレーションの場として東京の神宮外苑もラゴスの郊外も設計対象としての差異はない。図3にあるように、近接するJR線を無造作に飛び越えた提案に、その態度の一片がよく示されている。

 しかし日本人の場合は少し事情が異なる。そこには様々な立場の人々が参加したからである。

 このような重要な施設のコンペを遂行する時に、そのプログラムの妥当性を確認するため、建築の専門家に簡単なデザインをしてもらう場合が多い。この施設の最大高さが70mとされたのもおそらくこうしたスタディの結果からと推測される。しかし屋内面積28万m2 の規模はどのような根拠で決められたのだろうか。先に述べた代々木の国立競技場の8倍、東京国際フォーラムの2倍の床面積を持つこの施設は、おそらく多くの関連部局から提出された、それぞれの最も理想的な機能と規模の積み上げがこの数字になったのだろう。しかしホスピタリティ、店舗、スポーツ関連機能、図書室、博物館等に対して、代々木の総床面積を超える4万8千m2を与えていながら、それ以上の詳細なプログラムはなく、その配分は参加建築家に任せられているようだ。私自身これまで国際コンペに審査員として、また参加者として様々なプログラムに接する機会に接してきたが、これほど主催者の守備範囲の責任を放棄したものを見たことがない。このプログラムを前にして、特にコンペ参加者達はどういう気持ちでこれに接したのだろうか。おそらく懐疑、戸惑い、諦めなど、様々あったに違いない。

 しかしそれらの様相についても今日まで沈黙が支配し、窺い知ることもできない。もしもこれがスイスあれば、プログラムが発表された段階でまずリファレンダムが行われたであろう。プログラムに対してである。市民社会では市民がジャッジである。お上社会ではお上がルールなのだ。今回のお上は更に錦の御旗を掲げたお上であっただけに、いっそう沈黙が支配したのではないかと想像される。そして踊る会議は終了したのだが、会議だけは現在も続けられている。