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槇氏に古市徹雄氏が真意を聞く

槇文彦氏に一問一答
(聞き手は『JIA MAGAZINE』編集長・古市徹雄氏、同誌295号から転載)

古市:槇先生は、どうしてこのコンペに参加されなかったのでしょうか。

槇:このエッセイの冒頭で述べているように、我々は東京体育館を現在の場所につくるのに大変苦労しました。したがってこのコンペでは、あまり敷地も広くないところでその10倍の施設をつくることは完全なミスマッチだと直感的に感じました。それが不参加の第一の理由です。そしてまた、このコンペの規約書を見た時に、これは何だと思ったのです。そこにはいくつかの国際的な建築賞を貰った建築家には一種の特典が与えられています。なぜ著名建築家だけにか。日本発の国際コンペであったので、私のような疑問をもった建築家は世界中に多数いたのではないでしょうか。国際コンペに参加することは多くの建築家にとって夢であり、ロマンなのです。シドニー・オペラハウスもポンピドゥー・センターも、当時無名に近かった建築家たちがつくった20世紀建築の代表作です。我々はそのロマンの燈火を大事に守っていきたいと思います。

古市:このエッセイでの一番大事なメッセージを、もう一度教えていただけますでしょうか。

槇:一貫したメッセージはこうした場所における巨大建築を様々な角度から検証していることです。したがって一番大事なことは、この計画案はまだ計画の初期の段階のものです。しかし時間はありませんから、なるべく早い段階に、そのプログラムを根本的に見直すことだと思います。おそらく関係者の中にもこのプログラムに個人的に疑念を持っている人も少なくないと思いますし、もしかしたら内部で既に見直し作業が始まっているかもしれません。そうであれば、そうした見直しの気運を盛りあげるためにも、また、このエッセイで述べた様々なコスト削減の提案が、少しでもお役に立つことがあれば嬉しく思っています。

古市:現在の日本の建築論壇界について、どう思われますか。
槇:私が米国で生活していた1960年代は「The Culture of Cities」を書いたルイス・マンフォードが建築論壇の中心にいて、その意見の是非は別として、誰もが彼の言うことに耳を傾けていました。それだけのオーソリティが彼の発言にはありました。また当時まだ無名のジャーナリストだったジェイン・ジェイコブズがロバート・モーゼスと彼の率いる巨大な組織に対して徒手空拳で戦い始めた時代です。この二人の巨星を失った米国の建築の論壇界の現在は荒涼たるものです。日本ではもちろん彼等のような巨星はもともといなかったし、昔から「物言えば唇寒し秋の風」のその秋風が今でも吹いているのではないでしょうか。一老建築家が、このようなエッセイを書かなければならなかったその背後にある我々の建築文化の風土について、少し皆で考えてみることができればいいことだと思っています。