PR

相対的な「合格レベル」だけでは、一級建築士という資格の職能を定義し得ない

 「資格試験として好ましくはない状況」とは、「選抜試験」としては機能しているものの、「資格試験」としてははなはだ不十分な状況であるということです。

 「受験予定者の上位4割程度に食い込める実力」という表現できれば、受験生にとっては一種の学習目標として機能し得ます。たくさんの受験予定者を抱えた受験予備校に通っていれば特に有効で、その多数の受験予定者の中で自分がどの程度の位置に居るのかを確かめつつ学習を進めることで、目標到達までの距離を計ることができるでしょう。こうして、受験準備する側も、試験を実施して合格者を選抜する側も、実にスムーズに「コト」を進めていくことができます。

 ところが、いったん試験制度の枠の中から離れた位置から眺めると、試験制度どころか一級建築士という資格そのものについて基本的で重大な疑問がわき起こります。例年の記事で何度も指摘して来ていますが、一般国民にとっては、「受験生の中で上位4割の実力」と言われても、何を知っていて何ができるのか、具体的にはさっぱり分らず、建築設計についての専門的な知識や技能をそれなりに持っているのだろうなと漠然と想像する他ありません。そして、一般国民からそのことを問われたとしても、問われた建築関係者や一級建築士自身も、「専門知識や技能をそれなりにもっています」と漠然と答えるしかありません。「それなり」を具体的に示し得る資料や根拠は、この試験制度の中からは何も見出せません。

 「品質管理」の世界に置き換えると、「正規の製品として、製作精度の高いものから4割を抽出する」というチェックによって製品出荷をしてはいるものの、「そもそもの製品仕様や製品規格、要求精度についての定めはない、もしくは明らかにしない」という状態なのです。如何なるものが「良いもの」なのかの定義を示さないまま「自社検査に合格した良いものしか出しません」というメーカーは、十分に信頼を獲得している「善循環」の中ではスムーズに機能し得るのでしょうが、今日的な意味での「説明責任」を果たしているとは言えません。もちろん、製作精度の高さなどによって単に相対的な製品検査を行うだけでは、製品全体の品質基準を担保し得ないということは、言うまでもないでしょう。

 かくして、製品全体の品質基準、つまりは「一級建築士」という資格を獲得し得るために必要な知識や技能がどのようなもので、どの程度の習熟レベルでなくてはならないのかについて、その底支えをしているのは、試験制度や資格制度そのものではなく受験生自身の学習意欲です。

 自らの学習意欲に動かされて受験生が研鑽することによって受験生全体の習熟レベルが高まり、その結果として、相対的な意味しか持たない「受験生全体の上位4割」という合格水準について、その絶対的レベルが維持されていると言っては言い過ぎでしょうか。結果的に絶対的な水準が維持されているのであれば 可とすべきなのかもしれませんが、受験生自身の個人的な学習意欲や、受験指導を行う組織による受験対策の考え方や情報提供によってのみ支えられている水準というのでは、 国民の安全や資産を守る制度としていかがなものでしょう。筆者自身も一級建築士の端くれとして、この資格に対する責任感や技術者としての誇りや良心を信じたいとは思うものの、一国民としてはこの試験制度についていささか無責任な感を否めません。