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単騎独行の実行家 追悼・鈴木博之

石山 修武

 建築史家の鈴木博之が2月3日亡くなった。5年前からの肺がんから肺炎となっての病死であった。私は5年も前からその事実は知らされていたので、本人同様に覚悟はしていた。

 東京駅駅舎復元はもちろん鈴木博之だけの仕事ではなかったが、彼が中心的な、そしてその始まりの議論を起こし、それを深めた彼の作品と言いたいほどの近来まれに見る建築的成果であった。同様に国立近現代建築資料館の創設もまた、彼のほとんど単騎独行の努力の成果であった。新国立競技場の国際デサイン・コンクールの審査に当たっても、彼は中心的な役割を果たした。その全てを鈴木は衆を頼らずほとんどを単独の判断、決行の中で成した。重要な事ほど彼の判断は独りの中で成そうとした。立派と言うほかはない。そして義務だけではなく、責任も十分に果たしたのである。

赤れんが造でよみがえった東京駅丸の内駅舎(写真:澤田 聖司)
赤れんが造でよみがえった東京駅丸の内駅舎(写真:澤田 聖司)

 私は彼とは45年来の友であった。友となったのはお互いに言い始めたら聞かぬ、自説を曲げぬの悪癖が似通っていたからだ。以降、それを言う安藤自身も含めて「建築界の三嫌われ者」としての筋を曲げず、その事によって盟友ともなった。その数ある業績の中で著作としては遺作ともなり、それこそ命懸けの仕事であった『庭師小川治兵衛とその時代』(2013年、東京大学出版会)は、鈴木の世界観が良く表現され切っている名作である。

 忘れてはならぬ業績に、安藤忠雄の東京大学建築学科教授就任の人事がある。これは当時も今も天の理にかなった名人事であったが、これも鈴木博之は、ほとんど単騎で成し遂げたのである。天の理とまで言うのは、安藤忠雄もまた単騎の人であり、民衆だけが彼の味方であったからである。それ故にあらゆる俗な衆愚の馴れ合いから自由であったのは、形は異なるが歴史家鈴木博之もまた、実はそうであったからだ。

 大消費社会、そして情報化社会の明晰な建築像、つまりは未来を指し示す形を、建築家はいまだに示すことはできていない。しかし、安藤忠雄を支持する民衆の力の中にそれはありそうだということは、そろそろ分かってきているように思う。鈴木博之はこれもほとんど単独の思考の中でそれにたどり着いていたのである。歴史家は時に予言者でもあり得るのを、鈴木博之はその実行家としての才質の中でも示したのであった。

 鈴木博之の生身は不在となったが、その数々の著作、言説の大半はいまだ実は多くを理解されず、予言のごとくに少数派である。天才は古来、故郷には受け入れられ難いのが真理というものだ。

 これからの建築界はその不在により、より液状化思考がまん延するであろう。世界は生者だけで成り立っているものではない。鈴木もまた、その膨大な死者の1人となったけれど、死んだ者の、形になり難い、しかし必ず在る見えにくい骨格が、いずれ建築の未来に浮かび上がることの夢。それは歴史家鈴木博之が残した、最大の我々への贈りモノであった。