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『辞苑』と『広辞苑』の記述

龍安寺の境内
龍安寺の境内
虎の子渡しの謎
虎の子渡しの謎

 龍安寺石庭にある「虎の子渡しの庭」を、「癸辛雜識の説話」と関連づけて、世間に広める役割を果たしたのは、筆者が調べた限りでは、岩波書店が発行する辞書の王様、『広辞苑』だったと思われる。

 広辞苑は最初、昭和10年(1935)に新村出編『辞苑』として、博文館から発行された。しかし、戦後の昭和30年(1955)に、書名と発行先を変更。新村出編『広辞苑』として、岩波書店から第1版が発行された。そして、平成20年(2008)には、第6版に至っている。

 この『辞苑』『広辞苑』の各版に、「龍安寺」および「虎の子渡し」という項目が、どのように記されているのかをたどってみる。なお、龍安寺の正式名称は「龍安寺」で、『辞苑』にはそう記されているが、『広辞苑』にはなぜか「竜安寺」と記されている。

 昭和10年(1935)の『辞苑』
 龍安寺──足利時代に細川勝元が乞うて禅院を建て、相阿弥に命じて林泉を作った。虎の兒渡しの庭という方丈前の石庭はその一部。
 虎子──(虎はその子を愛護するからいう)大切にして、手放さぬもの。秘蔵の金品。
 虎子渡──苦しいやりくり。

 このように、石庭は「虎の子渡しの庭」ではあるが、「癸辛雜識の説話の庭」とは無縁であった。

 昭和30年(1955)の『広辞苑─初版』
 竜安寺──庭園は相阿弥の作。虎の児渡しの庭ともいう。
 虎の子渡し──(虎が三子を生むと、一子は彪で他子を食うので、水を渡るときは独特の苦心をするという説明に基づく)(1)苦しい生計をやりくりするたとえ、(2)碁石を用いて行う一種の遊戯。

 このように、2つの項目を比較すると、石庭「虎の子渡しの庭」は少しだけ、「癸辛雜識の説話」に近づいてきたように見える。

 昭和44年(1969)の『広辞苑─第2版』
 竜安寺──庭園は作者不明。「虎の児渡しの庭」ともいう。
 虎の子渡し──虎が三子を生むと、一子は彪で他子を食うので、水を渡るときまず彪の一子を渡し、次に別の子を渡して、また彪を渡し返し、さらに残りの一子を渡し、最後に再び彪を渡したという説話にもとづく。(1)苦しい生計をやりくりするたとえ。(2)碁石を用いて行う一種の遊戯。(3)京都竜安寺の石庭の異称」

 末尾(3)に見るように、ここで初めて、石庭「虎の子渡しの庭」は「癸辛雜識の説話」と、一体不可分の関係になっている。

 昭和58年(1983)『広辞苑─第3版』
 平成3年(1991)『広辞苑─第4版』
 平成10年(1998)『広辞苑─第5版』
 平成20年(2008)『広辞苑─第6版』
 
 第2版とほぼ同じ内容である。