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 6月2日公開の映画「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」を先日見た。奇抜な造形で知られる米国のスター建築家フランク・ゲーリー氏の活躍ぶりを、同氏に対するインタビューと周囲の人々の談話の形で描いた作品だ。日経アーキテクチュアが2007年5月14日号127ページで紹介している。紹介文では高く評価されていたが、筆者は見終わって「肝心なことはわからずじまいだった」とやや残念だった。

 肝心なこととは、ゲーリー氏が設計した建築の工事費、漏水対策、使い勝手、近隣住民の評判だ。インタビュアーを務めたシドニー・ポラック監督は、その種の質問を全くしなかった。漏水対策だけは、ゲーリー氏がヒントといえそうなことをわずかに口にしていた。「納まりの悪さが好きなんだ」と大胆な発言をした後で、「(竣工1年後の点検で)水漏れとかないか調べてるうちに楽しくなる」と言い放っている。「楽しくなる」のは、同氏の建築は不規則で複雑な形をしていながら、意外にも水漏れしないからかもしれない。「そういうことかね、フランク?」というポラック監督の念押しが欲しいところだった。

 スターにケチを付けたかったわけではない。もしゲーリー氏の設計した建築に高コスト、雨漏りといった短所があるとわかっても、「そんなずさんな仕事をする建築設計者がスターだなんて間違っている」と思ったりはしなかったはずだ。「それでもスターになってしまうほど、彼の仕事は発注者にとって魅力的なのか」と名声のすごさを再認識したことだろう。映画のプログラムにある同氏の作品リストを見ると、米国の内外で大規模なプロジェクトが目白押しだ。

 ゲーリー氏は映画のなかで、こうも語っていた。「若い頃は自分中心に生きてしまう。成熟すると視野が広がって自分が社会の一部だと悟り…」。奇抜な建築を数多く設計しながら「社会の一部」になったと語れるのは、一種の勝利宣言だろう。

 ゲーリー氏ほどではなくても、大胆な造形を得意とする建築設計者は日本にもいる。1990年代、20歳代で日経アーキテクチュアに在籍していたときにそうした設計者の仕事に接して、「こんな造形のどこに必然性があるのか」と疑問を感じたこともあった。しかしその後、筆者も少しは世の中や人生を知った。建築の発注が発注者の自己表現という面を持つ以上、できてくる建築がどれも堅実で常識的である必要はなく、多少ヘンで現実離れしたのがあってもいいじゃないか、という心境にいまはなっている。

 ただ、ヘンで現実離れして、しかも発注者を納得させる造形は、だれにでもできるわけではない。1990年前後のバブル期、ゲーリー氏以上に破天荒な作風で脚光を浴びながら、いまや鳴かず飛ばずの建築設計者もいるようだ。子どもの落書きのように見える抽象絵画が、あるものは億単位の値段で売れ、あるものはゴミ同然に扱われるのにちょっと似ている。両者の違いを明快に説明するのは難しいが、ともかく雲泥の差があることは間違いない(ちなみに映画に出てくるゲーリー氏のスケッチは、子どもの落書きのようにも見える)。

 映画館で筆者の近くに座っていた学生らしい女の子2人は、そういう実社会の厳しさにあまり関心がないのかもしれない。「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」が終わった直後、「先生の考え方がゴミみたいに感じてきた」「形から入ってもいいんじゃん」などと不敵な会話を交わしていた。建築学科の学生に違いない。「先生」はおそらく堅実で常識的な建築専門家なのだろう。

 「若い頃は自分中心に生きてしまう…」というゲーリー氏の言葉を、彼女らはちゃんと聞いていただろうか。