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 日経アーキテクチュアの隔号連載コラム「Text A」では、文学作品の中に登場する建物を紹介している。例えば、7月28日号で取り上げたのは、ドストエフスキーの「罪と罰」。抜粋したのは、主人公ラスコーリニコフが住む下宿の描写だ。

 「彼の小部屋は、5階建ての高い建物を上りつめた屋根裏にあり、部屋というより戸棚という感じだった」(岩波文庫/江川卓訳)。

 暮らしは貧しく、学業も思うようにいかず、拝金主義の世を憎む――。そんな主人公の追い詰められた気持ちを、この部屋の描写に感じられるような気さえする。

 ネタ探しのために、文学作品の中の建物描写を探し始めたら、いろいろな発見があって面白い。夏目漱石の「吾輩は猫である」には、主人公である苦沙弥(くしゃみ)先生が隣地問題に悩まされる挿話が出てくる。苦沙弥先生の自宅に隣接する広い空き地で、近所の学生たちが野球に興じるようになる。ホームランなのかファウルなのか、垣根越しにボールが飛び込んでくる。そのボールを拾いに、学生たちが私有地に勝手に入り込む。苦沙弥先生は学生たちを怒鳴りつけ、学校に抗議するが、ボールと学生の侵入は一向にやまない。

 明治の時代、既に学生が草野球を楽しみ、「球場」周辺の住民が庭に飛び込むボールに悩まされていた様子を、文豪夏目漱石が描いていたことが分かって、興味深く思った。

 ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」には、1950年代の米国のホテルに関する描写がある。ナボコフは「アメリカのホテルほど騒々しいところはない」(新潮文庫/大久保康雄訳)と言い切る。エレベーターの鉄扉を開けたり閉めたりする音が、左のこめかみの内側にあるかのようにはっきり聞き取れる。廊下はばかでかい「おやすみ」というあいさつであふれる。トイレのごぼごぼという水音、水槽に水を満たす音が壁を揺さぶる。屋外はトラックの走り抜ける音が鳴り響く。

 ロシア移民だったナボコフの冷たい視線で米国文化を描くと、こうも醜悪になるものかと感心した。

 こうしていろいろな文学作品に登場する建物の描写を読んでいくと、建物を描くことは、すなわち世相や社会を映し出すことでもあるように思えてくる。19世紀末のロシア、明治の日本、50年代の米国ときたら、そろそろ最近の日本文学から探してみるタイミングだろう。綿矢りさか川上未映子か。どんな作家がどんな建物をどのように描き、そこから今の日本の何を読み取ることができるのか。今から楽しみだ。