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建築から発祥した「アーキテクチャ」という概念が、現代的な新しい意味を持ち始めている。これは、社会をどう設計するかという議論に広がっているものだが、一方、建築にかかわる者としてはそれとは別に、もっと足元の問題を再考するために使うことができそうだ。

 様々な分野の論者が「アーキテクチャ」という言葉を使うケースを、よく見かけるようになった。言うまでもなく、情報技術(IT)分野をいったん通し、architectureという言葉が他に広がる形になったものだ。つまり、「建築」それだけを指しているわけではない。

 ではアーキテクチャが何を意味するかなのだが、“システマティックな構造物・構築物”ならばおよそ何でも、そう称することができなくはない。しかし、この言葉を使って、スタンドアロンのハードウエア・アーキテクチャ(≒建築)を語っても仕方がないだろう。

 そこで、インターネットが普及してから以降の論考において、アーキテクチャという言葉(概念)がどのような文脈で扱われてきたのかを見てみると、大きくは2つの流れが目立つことが分かる。それぞれの元となる1990年代の動きを、まずは挙げておきたい。

新たな「アーキテクチャ」が台頭してきた

● 米国の憲法学者、ローレンス・レッシグ氏が、新しい規制の様式としてのアーキテクチャに着目し、建築とも関連させて論じる。
● 国内外の経営学者らが、製品や事業に備わるアーキテクチャとしての性格に着目し、ビジネスモデル戦略などとの関連で論じる。

 特に前者は、現在のアーキテクチャ論に大きく影響している。先にこれに触れる。

 レッシグ氏はサイバー(インターネット)空間を論じる中で、人間に対して規制的に働く様式として、法、規範、市場、そし新しくアーキテクチャの4つがあるとした(詳細は翔泳社『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』『Code Version 2.0』参照)。哲学者・批評家の東浩紀氏が、このアーキテクチャを「環境管理型権力」と言い替え、情報社会との関係で論じてきたことなどが関心を広げる推進力になった。

 それがどんな「規制」かについては、以下のくだりがある(レッシグ氏の著書)。

法は、警察や検察、法廷がないと有効でない。鍵はそんなものはいらない。規範は、個人が逸脱行為を認識してそれに応じた反応をすることを必要とする。重力はそんなことはいらない。アーキテクチャの制約は自己実施的で、これは法や規範、市場の制約とはまったくちがう。
(中略)たとえば実空間の自動的な制約を通じて何か結果を出せるなら、個人の継続的なエージェント機能、忠誠、信頼性に頼る必要はない。機械にやらせれば、あり得そうにないことも実際に行なわれる安心感はずっと高くなる。(参考01)

 つまり、建築あるいはアーキテクチャというものは、ときに権力的にときに暴力的に個人の行動に作用し、それを顕在的にも潜在的にも操作できる。この指摘自体は、建築設計者には新鮮には響かないのかもしれない。薄々感じるか、深く気付いていることだろう。

 さて、前述の東氏はレッシグ氏の視点を踏まえて、アーキテクチャには(1)建築、(2)社会設計、(3)コンピューター・システム──の3つの意味がある、とする。これらの間を行き来する考え方がいま現れている。端的には説明しにくいのだが、国内での発言を紹介する。

インターネットという人工的・擬似的な自然環境の上で、アーキテクチャの実験が次々と行われては淘汰されているとするとき、私たちは、いかにその自然が暴走しないようにコントロールしつつ、そのあまたの成果を、ヴァーチャルな世界に限定することなく、現実の空間に適用していくことができるのか、ということです。(濱野智史氏、参考03)

ユビキタス化が進めば、私に関する各種のデータベースが私の行動に従って形成され、やがてそれを基に、どこかのアーキテクトが設計したアグリゲーターが、「あなたが選ばなくてもあなたの過去の行動からあなたが欲しいものはわかっています」とばかりに物理環境や情報環境を変形していくことになります。
(中略)今日のアーキテクトないしソーシャルデザイナーに求められているのは、「人々の欲望に応えるという機能を果たしつつ、欲望に応えることを可能にする<システム>を──できる限り共生価値に資するかたちで──維持するという機能をも果たす、有効でサステナブルなアーキテクチャ」を設計することです。(宮台真司氏、参考02)

 レッシグ氏が詳細に検証したように、(包括的な意味での)アーキテクチャは、法、規範、市場と並ぶ、あるいは他を上回るポテンシャルを持つ力になった。“権力”と呼ぶように、たぶんに警戒を込めてもいるのだが、この概念は現代の社会像を把握する手がかりとなり、将来の社会のあり方を考えるために有効な視点をもたらす。そういった期待を、いまの論者らは持っている。同時にこれは、建築自身のあり方を問うことにもつながってきそうだ。

“自生的な構造物”としてのアーキテクチャ

 さてもう一方の経営学におけるアーキテクチャ論はやはり米国から伝わってきた。ITというよりも製造業を対象としているが、建築生産の研究者などが参考としているもので、コンピューター・システムとの比較の意味でも興味深いので、少しだけ説明しておく。

 その国内での権威の一人は藤本隆宏氏(東京大学大学院教授)で、建築分野と共同した試論もある。同氏は、アーキテクチャを、「所与の人工物が顧客に提供する一群の機能要素(例えば自動車では快適性、安全、燃費等)を、一群の構造要素(車体、車台、エンジン等)に対応づける構想、設計形式」と表現する。オープン/クローズド、インテグラル/モジュラーといった対比による製品アーキテクチャの解説を、見たことのある人もいるはずだ。

藤本隆宏氏が示す「製品アーキテクチャの基本タイプ」(本誌が一部加工)

 こうした製品などのアーキテクチャは、どちらかといえば“空間”的な関係付け(部品と、そのつなぎ方=インターフェースのデザイン)を問題にしている。しかし、いまコンピューター・システムに関心が向かっている理由は、“時間”の要素が加わり、「設計主体の意思とは関係なく自己生成的に変化する」といったアーキテクチャの性格がクローズアップされてきたからだ(社会も建築も、似たものにみなし得ることはお分かりいただけると思う)。※1

 つまり、ハードウエアとしての物理的な性格(規制の力)もさることながら、近年に台頭したシステム──現時点であればウェブ(2.0以降)関連のアーキテクチャ、さらに言えばソフトウエア関連のアーキテクチャにも目を向ける必要がある、ということだ。