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 8月9日、一代の傑物棟梁が78歳で他界した。田中文男さんだ。
 新聞の訃報はどれも職業を「宮大工」としていた。
 「宮大工? 国指定重要文化財の修復?」
 短くまとめられたプロフィールにとまどいを感じる自分がいた。

 私の知る限りの10年前までの田中さんはいつも「大工」か「職人」と自称していた。本人の口から「宮大工だ」と聞いたことは一度もない。周りからは「棟梁」や「大棟梁」、もしくは“ダイフミ(大工の文)さん”などの愛称で呼ばれていた。国指定重要文化財クラスの神社仏閣を修理した実績は少なからずある。その意味では間違いなく宮大工だが、田中さんの仕事にはその一言では収まりきらない広がりがあった。あえていえば、宮大工は宮大工でも“規格外の宮大工”だった。

 そもそも田中さんが意識的に保存や修復を行っていたのは、国指定よりも県や市などの自治体指定の文化財であり、神社仏閣よりも民家だった。
 「業務内容はですね。相変わらず点(単体の建物)の保存、すなわち文化財建造物の保存が多いです。それも国で拾ってもらえない建物ですね。国家権力がやる保存は大変楽なんですが、自治体で残したいということで、修理などの注文があります。相談を受けましたものを、自分なりにどのように守っていこうか、ということをやっています」
(1992年2月 美々津町町並フォーラムでの講演内容より抜粋:『普請研究』(普請帳研究会)第39号特集「大工・田中文男」(92年5月)に収録)

 その仕事は「文化財の保存・修復」の枠にとどまらなかった。吉野ヶ里では“めり込み設計式”による構造設計を行った建築群を「復元」つまり新築している。「研究」にも熱心だった。古くは東京大学建築学教室による琵琶湖湖北地方などの一連の民家調査に協力し、70~90年代には自らのフィールドである東関東地方で膨大な古民家研究と修復報告書を残した。前者の調査では藤島亥二郎、藤岡通夫、太田博太郎など高名な学者たちの片腕として活躍し、後者の研究成果は前出の『普請研究』などに詳しい。

 建築設計界では、多くの建築家に協力して現代木造建築の施工を手掛けたことのほうが知られているかもしれない。実務者として体得した伝統構法に対する深い知見と技術に多くの建築家が助けられ、影響を受けた。有名なのは宮脇檀や藤本昌也氏とのコラボレーションだ。