PR

「東京には建築家がやることがなくなった」

――伊東さんご自身は、この1年で建築家として大きく変わったと感じることはありますか。

伊東 一番大きいのは、ずっと僕は東京を向いて建築をつくってきたんだというのを、あらためて気付かされたことですね。もう東京は面白くないと言ってはいたけれども、それでも東京に象徴される都市をベースに自分の建築を組み立ててきていて、それが今回東北に行ったら、急に東京が空々しく思えてきた。

 今までも、「もう東京に公共建築は建たなくなってしまっていて、都市全体が巨大化されて僕らがやることは何もなくなってしまった」という感じはしていたんですよ。それが東北で、被災地の方と話をしたり、仮設住宅に行ったりすることによって非常に問題が整理されたと言いますか、東北には僕ら建築家がやることがある、というのがはっきりしましたね。つまり建築の社会的な意味というものは、東京ではほとんど消えうせていたけれども、東北にはある、ということです。

――東京にはもう建築家がやるべきことはない、と。

伊東 東京は、いわゆるシンボルです。グローバル化していく経済の中での建築ということの意味を言っているのであって、東京に希望がないと言っているわけではありません。それは今までも漠然と発言していましたけど、東北で「ああ、ここにこそ僕らがやるべきことがある」と実感したんです。

 「みんなの家」をつくって、こういう建築のやり方もあるんだなと思いましたね。もちろん、普段は近代建築の仕組みの中で動かなければならないですから、あのときと同じように建築を考えてつくっていくことはできないけれども、それでも、ひとつのユートピアとして、ああいうやり方があったんだということを、目の当たりにできたのは大きな成果だったと思います。

山本理顕氏の横浜国立大学Y-GSA退任記念と、「帰心の会」の催しを兼ねて2011年12月に横浜市内で行われた公開シンポジウムの様子。左手の内藤廣氏は2011年3月まで、東京大学大学院社会基盤学専攻の教授だった。一方、隈研吾氏は同大学院建築学専攻の教授を務めている(写真:ケンプラッツ)
山本理顕氏の横浜国立大学Y-GSA退任記念と、「帰心の会」の催しを兼ねて2011年12月に横浜市内で行われた公開シンポジウムの様子。左手の内藤廣氏は2011年3月まで、東京大学大学院社会基盤学専攻の教授だった。一方、隈研吾氏は同大学院建築学専攻の教授を務めている(写真:ケンプラッツ)

――東北の復興計画に、今後、建築家はどのように関わっていくべきだと思いますか。

伊東 東北でも、このまままた放っておくと、仮設が恒久に変わっただけの住宅がつくられていって、以前より均質化した町になりそうな危険はたくさんあると思います。住民の人たちも個人的にはそれは嫌だと思っていたとしても、それを変えていくすべがないのが実情です。そこに建築家がもっと介在できるといいと思いますね。

 内藤さんは、そこを行政の側からもう少しなんとか柔軟にできるようにと、奔走しておられる。ランドスケープと土木のエンジニアと建築家が、もっと一緒にやるような方法が考えられるといいですね。今年からは被災地で、学校ですとか具体的なものが発注されていきますから、新しい町をつくる大きなチャンスであり、これを逃したら取り返しがつかなくなるかもしれないという焦りも感じています。

伊東豊雄氏。略歴は以下の通り。いとう とよお:1941年生まれ。65年東京大学工学部建築学科卒業。65~69年菊竹清訓建築設計事務所。71年アーバンロボット(URBOT)設立、79年伊東豊雄建築設計事務所に改称。86年「シルバーハット」で、2003年「せんだいメディアテーク」で日本建築学会賞作品賞受賞。2010年第22回高松宮殿下記念世界文化賞受賞(写真:ケンプラッツ)
伊東豊雄氏。略歴は以下の通り。いとう とよお:1941年生まれ。65年東京大学工学部建築学科卒業。65~69年菊竹清訓建築設計事務所。71年アーバンロボット(URBOT)設立、79年伊東豊雄建築設計事務所に改称。86年「シルバーハット」で、2003年「せんだいメディアテーク」で日本建築学会賞作品賞受賞。2010年第22回高松宮殿下記念世界文化賞受賞(写真:ケンプラッツ)