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 ジャーナリズムの現場には、良きにつけ悪しきにつけ、高邁な理想を抱えてこの世界に飛び込んでくる硬骨の士が少なくない。その中にあって、原稿を書く「作業」そのものが単純に好きで編集の世界を選んだ自分自身が、目の前にしている現実の重さの前に、何を書いて何を伝えれば良いのか、筆が止まって何も書けなくなるプロの書き手としてあるまじき事態を2度、経験したことがある。

1995年の阪神大震災で倒壊した阪神高速道路の東灘高架橋
1995年の阪神大震災で倒壊した阪神高速道路の東灘高架橋

 1度目は「日経ビジネス」の若手記者として1995年1月17日に起きた阪神大震災の現場に入った時であり、2度目が同じ日経ビジネスの編集長として2011年3月11日に勃発した東日本大震災に直面した時だった。

 現金なもので、阪神大震災のちょうど1年前、ニューヨーク支局駐在中にロサンゼルス地震(1994年1月17日)を経験した際は、西海岸に飛んだ同僚の支援に回って現場に入らなかったこともあり、どこか他人事であり、「客観的に」いくらでも原稿を書くことができた。

 当時、大災害に対応する米合衆国連邦政府の政府機関、米合衆国連邦緊急事態管理庁(FEMA)が力を発揮したことが日本でも報道されて、広く注目を集めるようになっていた。今にして思えば、太平洋の反対側で起こった震災を対岸の火事としないように、多少なりとも米国の経験に学ぼうという機運が高まっていたのは否めない。

 一方で、日本から続々とロサンゼルス周辺の現場に入った専門家たちは、高速道路が長距離にわたり完全に崩壊した状況について、「米国だから起きたことで日本ではありえない」と日本の土木技術の優秀さにお墨付きを与えるコメントを繰り返し述べていた。

 結局、日本ではロサンゼルス地震規模の直下型震災が起こったとしても、高速道路が倒壊するような被害は発生しない、という根拠なき安心感だけが残されて、その記憶も消えないうちに、阪神大震災の当日を迎えることになる。

 1995年1月17日の震災当日、辞令により帰国して東京で住む家の下見をするために普段より早く起床して、テレビの映像で第一報に接することになった。「日本ではありえない」はずの高速道路の倒壊が現実となり、自民社会さきがけ連立政権の村山富市内閣の初期対応が大幅に遅れ、被害を拡大したことは何度も報道されてきた旧聞に属する事実なので、ここでは記さない。居住者として被災した建設局の小原隆ネット事業プロデューサーの体験記が別途、掲載されているので、当日の詳報もそちらに譲ることとする。

 1月17日の時点で別の特集を抱えていた自分自身が神戸の中心部に取材に入ったのは、先駆けて現場に飛んだ同僚が交代で東京に戻ってきた後であり、震災発生から10日から2週間は経過していたと記憶している。

 その頃には、初日に現場に駆け付けた記者が経験したような倒壊現場での救助救援活動はほぼ終了し、被災者があちこちで所在なく立ちすくんでいたり、倒壊した家屋の傍らで助けを求めたりしている状況ではなかった。それでも、以前見慣れていた神戸の街が一変し、住宅も高速道路もビルも一様に被害を受けている現状を目の当たりにするにつけ、この惨状の中で何に焦点を当てて、何を取材して、何を書いて伝えればいいのか、いくら歩きまわっても答えは出なかった。結局、震災については1行も書かなかったし、書けなかった。書かなければならないと思っているうちに、震災の記事は誌面から徐々に消えて行き、取材の記憶も日常の喧噪の中に薄らいでいった。