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東京五輪成功の立役者として丹下健三らスター建築家の名が挙がることは多いが、かじ取り役である岸田日出刀について語られることは少ない。若手を信頼し、ベテランを盛り立てる─賛否はあれど、岸田の強いリーダーシップで数々の名作が生まれたことは間違いない。(日経アーキテクチュア)

国立屋内総合競技場の屋内を見る設計チームの面々。左から丹下健三、坪井善勝、神谷宏治、井上宇市。丹下は岸田日出刀の熱い期待を背負って設計者に指名され、その期待に見事に応えた(写真:内田道子アーカイブ)
国立屋内総合競技場の屋内を見る設計チームの面々。左から丹下健三、坪井善勝、神谷宏治、井上宇市。丹下は岸田日出刀の熱い期待を背負って設計者に指名され、その期待に見事に応えた(写真:内田道子アーカイブ)

岸田日出刀(1899~1966年)(写真:内田道子アーカイブ)
岸田日出刀(1899~1966年)(写真:内田道子アーカイブ)

 1946年の第18回オリンピック東京大会(以下、第18回大会)実現に当たり、岸田日出刀は日本体育協会の施設特別委員会委員長の重責を担った。

 この背景には第18回大会の事務総長を務めた田畑政治(1898~ 1984年)の存在が大きい。田畑は新聞記者で水泳日本代表コーチであったが、前回触れた日本体育協会理事長・末弘厳太郎の下で活躍し、第12回大会の頃から末弘とともに岸田に対して大きな期待を寄せていた。

 岸田はこのとき60歳。施設特別委員会委員長として、「どういう競技場や施設を、どこそこへいつまでに建設すべきかという根本計画を立案し、それを組織委員会の議にかけ、承認を得、担当の建築家をだれにするかということを決定」する任を負った。

 こうした岸田の強い権限に対して、面白く思わない建築関係者が複数現れ、岸田は「この人選に対してその不明朗性を指摘して非難する向きもあるやに聞くが、これらの人選に対して、施設特別委員会の委員長であるわたくしがその全責任を負う」(岸田日出刀「オリンピック東京大会とその施設」/新建築1964年10月号)と断言した。

 さらに現・国立競技場(1958年竣工)〔写真1〕が第18回大会のメーンスタジアムに決まった段階で検討された増築案でも、収容人数10万人が目標となったが、結果として7.5万人にとどまった。

〔写真1〕五輪誘致を目指して国立競技場が完成
国立競技場を上空から見る。第18回大会の誘致を目指して建設され、1958年に完成した。誘致が決定したのは翌年の1959年。競技場の設計は、建設省近畿地方建設局の片山光生(写真:日本電設工業会「東京オリンピック施設の全貌」から転載)
国立競技場を上空から見る。第18回大会の誘致を目指して建設され、1958年に完成した。誘致が決定したのは翌年の1959年。競技場の設計は、建設省近畿地方建設局の片山光生(写真:日本電設工業会「東京オリンピック施設の全貌」から転載)

 この国立競技場の規模設定について、岸田は「なんとか10万人収容の線に近づけようと一方のスタンドを大きく張り出して拡張させたが、その最上部は外苑内の道路の上に大きくおおいかぶさるようなことになってしまった。それほどにこの敷地は狭いのである」(岸田日出刀「オリンピック東京大会とその施設」/新建築1964年10月号)と記している。