
私の駆け出し時代
目次
-
デビュー作で無駄に悩んで吹っ切れた
東 利恵氏、その3〔失敗に学ぶ編〕
若い頃の東利恵氏も、一見失敗と思えることもしているが、それを即座に解決、あるいは教訓にし、同じ轍(てつ)を踏まないようにしてきた。そして、「くよくよしないこと」も、経験から学んだ。
-
未経験の大規模改修で星野リゾートの信頼得る
東利恵氏、その2〔ブレークスルー編〕
米コーネル大学に留学し、そこで同級生たちに認められることで、建築家になることを決意した東利恵氏。同大学での運命的な出会いがほかにもあった。ホテル経営を学んでいた星野佳路氏(現・星野リゾート代表)だ。後に、星野氏が家業の老舗旅館を変革していくとき、東氏は建築の設計者として協働していくことになる。(全3…
-
「七光り」と言われてもチャンスはチャンス
東利恵氏、その1〔若き日の葛藤編〕
建築家・東孝光氏の設計事務所を継いで、東環境・建築研究所の代表になった東利恵氏。父の代表作である自邸「塔の家」で暮らし、建築関連の書籍に囲まれて育った。ただ、すんなりと建築の道に進んだわけではない。自分自身の経験を積み重ねて、設計者として生きていけるかどうかを見定めた自問の末に、道を切り開いた。(全…
-
得意な「農水系」の設計で詰め欠く
川原秀仁氏(山下ピー・エム・コンサルタンツ代表取締役社長)、その3〔失敗に学ぶ編〕
日本でコンストラクションマネジメント(CM)、プロジェクト・マネジメント(PM)の業務をけん引してきた川原秀仁氏にとって、忘れられない失敗がある。山下設計時代に担当した築地市場だ。落ち込んだ自身を鼓舞し、同じことを繰り返さないよう没頭して業務に取り組んだ。その体験は、以後の川原氏を支える原動力になっ…
-
初のCMで感じた分離発注の難しさ
川原秀仁氏(山下ピー・エム・コンサルタンツ代表取締役社長)、その2〔ブレークスルー編〕
川原秀仁氏は、コンストラクション・マネジメント(CM)、プロジェクト・マネジメント(PM)の道に入るまでにいくつかの職を体験した。農用地開発公団やJICAなどを経て山下設計に転職し、設計の実務を担当。1999年に巡り合ったのが、日立マクセル東京本社ビルのプロジェクトだ。分離発注の管理に汗を流し、その…
-
農業分野で「使える」施設づくりに目覚める
川原秀仁氏(山下ピー・エム・コンサルタンツ代表取締役社長)、その1〔若き日の葛藤編〕
コンストラクション・マネジメント(CM)、プロジェクト・マネジメント(PM)の領域を先導する山下ピー・エム・コンサルタンツ。2012年から同社を率いる川原秀仁氏は、社会人生活の第一歩を農業分野で踏み出した。九州やアジアの各地で農業用施設づくりに携わり、建物を建てた後の活用の重要性を実感する。(全3回…
-
最も怖い失敗は「自信を失う」こと
新居千秋氏、その3〔失敗に学ぶ編〕
JIA日本建築大賞の受賞時、審査員の1人だった建築史家・中川武氏は、新居千秋氏の建築を「民主主義と質の両立」と評した。学生の頃からワークショップを大切にする新居氏は、独立してからも一貫して、そうした仕事を続けてきた。そんな新居氏にとって、失敗とは「自信を失うこと」だという。
-
ルイス・カーンに「天才」と言われた
新居千秋氏、その2〔ブレークスルー編〕
新居千秋氏は留学先のペンシルベニア大学大学院においても、周囲と協力して課題に取り組む。ワークショップを重視する現在の新居氏の設計手法と軌を一にしているかのようだ。人を巻き込む才能──。それを見抜いたのか、ルイス・カーンは新居氏のことを「天才かもしれない」と評価。その言葉が、さらに新居氏の自信を生み、…
-
自信を持つと突如、人生が好転
新居千秋氏、その1〔若き日の葛藤編〕
これまで70を超える建築賞を受賞してきた新居千秋氏。日本建築学会賞作品賞、JIA日本建築大賞、吉田五十八賞など、数え出したら枚挙にいとまがない。これだけの実績があれば、自然と自分に自信を持つこともできるだろうが、当然、最初は何も賞を取っていなかった。しかし、新居氏は早々にその才能を発揮し、そして見い…
-
計算と実験繰り返し、いまだ失敗なし
川口衞氏(川口衞構造設計事務所代表、法政大学名誉教授)、その3〔失敗に学ぶ編〕
「これまでの構造設計で失敗したことはない」。構造家の川口衞氏はそう言い切る。では、失敗を防ぐためにどのような意識で取り組んできたのか。つくることを踏まえた設計と施工者に納得させる説明に、川口氏流の秘訣がある。
-
大阪万博で世界初の空気膜構造に挑戦
川口衞氏(川口衞構造設計事務所代表、法政大学名誉教授)、その2〔ブレークスルー編〕
1970年の大阪万博は、構造家の川口衞氏に野心的な試みへ挑戦する機会を与えた。当時、世界の構造設計が向かっていた軽量化の流れを踏まえ、川口氏は2つの空気膜構造に取り組む。「電力館水上劇場」では空気の負圧を用い、「富士グループパビリオン」では風船状の筒をアーチ状に並べた形を実現。空気を利用した膜構造の…
-
「駆け出しなし」で代々木競技場に大抜てき
川口衞氏(川口衞構造設計事務所代表、法政大学名誉教授)、その1[若き日の葛藤編]
構造家の川口衞氏は、丹下健三氏、磯崎新氏、内藤廣氏など多くの建築家と組み、時代を画する建築を生み出してきた。特筆すべきは、若い時期から実務の肝となる業務を担ってきたことだ。「国立代々木競技場第一体育館」では坪井善勝東京大学教授の下、実質的な責任者として構造設計に取り組んだ。
-
後悔の質疑応答、メディアテークコンペで涙のむ
古谷誠章・早稲田大学教授、その3〔失敗に学ぶ編〕
古谷誠章氏は、せんだいメディアテークの設計競技で2位だったことがよく知られている。コンペ史上「最強の2位案」との声もある。だが古谷氏自身は、負けるべくして負けたという思いもあるようだ。(全3回のうちの第3回、この回のみ日経アーキテクチュア購読者限定)
-
「賞を取れ」が建て主唯一の注文
古谷誠章・早稲田大学教授、その2〔ブレークスルー編〕
古谷誠章氏の建築に通底しているのは、最初からすべてを決めてしまわずに、予想外のことをむしろ利点に変えてしまおうという発想だ。穂積信夫研究室で実務経験に恵まれた古谷氏は、そうした自分自身の考えを、どこで育んでいったのだろうか。コンペ案や最初の住宅作品に、その原点があった。(全3回のうちの第2回)
-
研究室で設計に没頭、槇事務所への就職逃す
古谷誠章・早稲田大学教授、その1〔若き日の葛藤編〕
今年5月に日本建築学会の会長になった古谷誠章氏。温和な人柄と分かりやすい語り口から教育人(早稲田大学教授)としての印象も強いが、一方で八木佐千子氏と共同主宰する設計組織NASCAでは、住宅から公共施設まで、数多くの設計も行っている。その原点は、大学院生、そして大学の助手の頃。穂積信夫研究室の設計チー…
-
予算オーバーで身に染みた発注者の言葉
千鳥義典・日本設計代表取締役社長、その3〔失敗に学ぶ編〕
設計内容と見積もりの調整は、設計者の前にしばしば難題として立ちはだかる。千鳥義典・日本設計社長も、事実上の責任者として初めて取り組んだプロジェクトで大きく予算がオーバーするという状況に直面した。プロとして設計に取り組む姿勢を正す機会となった。(全3回の第3回、この回のみ日経アーキテクチュア購読者限定…
-
現場に3年常駐、公共建築の面白さ知る
千鳥義典・日本設計代表取締役社長、その2〔ブレークスルー編〕
千鳥義典・日本設計社長にとって転機は入社数年で訪れた。1987年に竣工した「松山市総合コミュニティーセンター」だ。設計の初期段階から、現地に赴任しての工事監理まで一気通貫で担当し、実務の多くを体験した。この頃から一貫しているのは、仕事は楽しんでするという姿勢だ。(全3回のうちの第2回)
-
「日本設計ってどこ?」、超高層ビルの職場に驚く
千鳥義典・日本設計代表取締役社長、その1〔若き日の葛藤編〕
「何よりも実務を覚えたいという欲求が強かった」と日本設計に入社した当時を振り返る千鳥義典社長。入社してしばらく小規模な公共施設の設計が続く。初めての図書館では東京都近郊の建物に足を運んで各部分の寸法を実測した。一見地味な資料の作成も、千鳥氏にとっては学ぶものの多い刺激的な仕事だった。(全3回のうちの…
-
発表できない建築は「失敗」
坂 茂、その3〔失敗に学ぶ編〕
建築は作品であり、発表することで、他人の評価と批判を受け入れることが重要だと、坂茂氏は語る。そうすれば、常に緊張感を持って設計に臨めるという。ただ、過去に1つだけ、坂氏が発表をしなかった住宅がある。発表できなかったこと、坂氏にとってそれはつまり、「失敗」の経験だった。(全3回のうちの第3回、この回の…
-
災害支援が人生を決めた
坂 茂、その2〔ブレークスルー編〕
新しい構造と材料を開発する一方で、坂氏は難民キャンプのシェルターや、被災地の仮設住宅など、建築を通した社会貢献も行っている。構造や材料を開発することで、独自の建築を切り開きながらも、そもそも「建築家」という職業が社会の役に立っていないのではないか、という大きな疑問も同時に抱いていた。その疑問に、どう…