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これまで150件以上の住宅を設計してきた無有(むう)建築工房の竹原義二氏。師・石井修氏(1922~2007年、美建・設計事務所主宰)に対する深い尊敬の念を常に表明している。大学時代に偶然、石井氏に出会い、事務所の門をたたいた。毎日が石井氏とマンツーマンの問答。独立してからも「石井先生だったらどうやるかを考える」と言う。

竹原 義二(たけはら よしじ) 無有建築工房代表、摂南大学教授
竹原 義二(たけはら よしじ) 無有建築工房代表、摂南大学教授
1948年徳島県生まれ。71年大阪工業大学短期大学部建築学科卒業後、大阪市立大学富樫研究室を経て、石井修/美建・設計事務所勤務。78年無有建築工房を設立。2000年大阪市立大学大学院生活科学研究科教授。15年摂南大学理工学部建築学科教授。主なプロジェクトに、延命湯(1983年)、吉見ノ里の家(90年)、鴻ノ巣の家(94年)、海椿葉山(99年)、101番目の家(2002年)、あけぼの学園 南楓亭(07年)、豊崎長屋(11年)(写真:生田 将人)
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若き日の葛藤編
学生運動のなか、生涯の師に出会う

 僕の実家は工務店で、設計事務所をやっている親戚もいましたので、子どもの頃から、なんとなく建築の道に進もう、と気軽に考えていました。ただ、工業学校(大阪工業大学短期大学部)の建築学科に進学して先生の話を聞いていると、建築はそんなに簡単ではなくて、「もっと勉強せなあかん」と気付かされました(笑)。

 建築を学ぶには、社会全体のことまで考えなくてはならない、そういうことを教え込まれたんです。ちょうど学生運動が盛んな頃でしたから、社会のことを考えるために、大学(大阪市立大学)に進みました。

 建築学科の学生運動としては、保存運動がはやっていました。ちょうど、中之島の市役所、図書館、公会堂を建て替えるという話が出ていたので、僕らもそれに異を唱えて、中之島の建築を残すべく、運動を起こした。今の中之島があるのは、このときの保存運動が実ったからなんですよ。すごいことやと思います。

石井修氏に偶然に古書を売る

 この保存運動をしているときにも、建築だけではダメだと感じました。デザイナーとか、たくさんの人たちと協力することで、「中之島祭り」を実現することができたんです。路上で寝泊まりしながら、仮設の舞台をつくったりしましたよ。

 そのお祭りの付き合いのなかで、滝沢真弓さん(分離派建築会のメンバー)が、家の中の蔵書を持って行っていいというので、それをトラックで運び、祭りの日に売っていました。僕は無知で、そのなかに貴重な本がたくさんあったということを、全く分かっていませんでしたから、祭りの資金源にするためにたたき売りを(笑)。そのとき、石井(修)先生が来て、「すごい本がある」と買って行かれたのが、最初の出会いでした。

 ちょうど美建(石井修氏の設計事務所)に勤めていた大学の先輩がいたので、入れ違いで入所することになりました。先生に「どこかで会ったことあるよな」と言われ、「実は中之島で」というやり取りをして(笑)〔写真1〕。

〔写真1〕学生時代から図面は得意
〔写真1〕学生時代から図面は得意
若い頃の竹原義二氏(写真:無有建築工房)
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